『イエス様のことばを信じて』 ヨハネ4章46-54節 2013年6月30日(日)

   『イエスのことばを信じて』
  ヨハネ4章46−54節 13.6/30
 年を重ねるほど病気になる確率は高くなるのですが、わが国ではその確率が低いとはいえ、赤ちゃんであっても、幼児であっても、あるいは年が若くても病気になり、亡くなるケースは決して少なくないのです。
 そして、死者との別れはだれであっても悲しいものです。なかでも亡くなった人が若ければ若いほど、身内のみならず周りの人たちの悲しみはいっそう増すのです。
 今でも忘れることが出来ないのが、31歳の若さで天国に先立ったT兄であります。
 ガンとの闘病生活が3年半ほど続きました。何よりもご両親の悲しみや苦しみがどれほどのものかを測り知ることが出来ません。
 ご両親は、もし治るならいくらお金をつぎ込んでもいいと思われたことでしょう。あるいは自分が息子と代われるなら、いつでも代わられたことでしょう。しかし25年経った今も、ご両親の悲しみが癒えることはないのです。
 ある夜、私はこの会堂で涙ながら祈りました。彼は苦学して、夢であった高校の英語の教師にやっとなれた矢先に病気が発症。彼は非常にまじめでした。そして誠実で、とっても恥ずかしがりでした。本当に純な兄弟が一体何ゆえに、あのようなつらい病気になり、さらにあまりにも若くして命を取られたのですかと叫ぶ祈りでした。
 何か理由があって、神様が彼を召されたはずです。しかし、いまだにその答えが分からないのです。もしかしてその答えが出ているのに、私自身が気づいていないのかも知れません。
 さて、けさの聖書箇所にも、子供が重い病に犯されたという出来事が記されています。
 結論から言えば、イエス様が役人の息子の病をいやされて、その家族全員が神様を信じたのです。『災い転じて祝福来る』のことわざ通りです。息子の危篤の病による大きな悲しみから、神との出会いという祝福へと変えられたのです。
 では、けさは神の祝福を受ける秘訣についてみことばから見て行きましょう
 さて、役人の息子がどのような病であったかは詳しく記されておりません。とにかく重篤な熱病であったことは間違いありません。そして、王室の役人ということで、恐らくユダヤの王ヘロデに仕えていた役人と思われます。
 当時の役人という身分はかなり高いもので、彼は相当な財産家であり、そして裕福な生活を送っていたようです。
 ところが息子たちと幸せな毎日を送っていた家庭の中に突然襲いかかった息子の重い病気によって、この家庭は一転大きな悲しみと不安に包まれたのです。
 私たちの人生においても幸せがいつまでも続くという保証はどこにもないのです。
 もちろん、いつまでも幸せで、平穏な日々であって欲しいというのが私たちの本音でしょう。
 もちろん、自分から不幸を願う者は誰もいないはずです。ところが、時として思いがけない不幸に見舞われてしまいます。そうかと言って、いつ降りかかるか分からない不幸を前もって避けることもできないのです。
 できるなら避けたい不幸や試練。ところが、遭遇する不幸のすべてがその人の身に悪い結果をもたらすとは限らないのです。
 まさに、けさ登場する役人の家族がその一例であります。息子の危篤という大きな試練に見舞われたのですが、その結果、最終的には家族の者がみなイエスを信じて救われるという大きな祝福にあずかったのです。
 結論から言えば、いかにこの世において裕福で、何不自由ない生活を送り、そして幸せと思える順風満帆の人生を送っていたとしても、この役人のように、不可抗力的な、あるいは不可避的な不幸な出来事に遭遇したときに、特に人の生き死に関わるときに、人は自分の無力さや富や財、そして人間の知識や知恵のはかなさを悟る機会となることが多いのです。
 そしてその時こそ、目には見えない人間を超えた大いなる存在者を求める機会にもなるのです。
 またその時は、神様を求める絶好のチャンスにもなりうるのです。ですから不幸と思える出来事がその人を駄目にするか、反対にその人にとって益となるかは、その人がその試練をどのように受け止めていくかによって大きく違ってくるのです。
 さて、この役人の息子がいやされる方法はただ一つでありました。高価な薬も買えたとしても治らなかったのです。当時の名医であっても、どうにも出来ない病のようでありました。
 恐らく、この父親は自分ができることは何でもしたいと思っていたはずであり、またそのようにしたに違いありません。しかし、この役人は息子の死を待つしか他に方法はなかったのです。
 そのような時に、父親は噂で聞いていたイエス様のことを思い出したのでしょう。近くに来られたイエス様のところに自ら出向いて、息子をいやして欲しいと懇願したのです。
 もし息子の病むことがなければ、彼はイエス様のところに行くことはおそらくなかったはずです。
 少年時代に赤痢菌に冒されて首だけしか動かすことのできなかった水野源三さんは『もしも私が苦しまなかったら、神様の愛を知らなかった。』と歌い。星野富弘さんも、頚椎損傷で一生体を起こすことができなくなるという大きな事故を経験したなかでイエス様に出会ったのです。三浦綾子さんも同様でしょう。
 これらの人は、身に受けた大きな不幸が神との距離を大きく縮めて行ったのです。
 さて、毎日何の不自由もなく、幸せに暮らしている役人にとっては、イエス様がいかなる人であったとしても、彼にしてみれば遠い存在であったのです。
 今日の日本においても、イエス・キリストというお方とは無関係にある人々がたくさんおられるのです。
 たとえ大きな試練に見舞われたとしても、イエス・キリストと出会うこともなく、日本にある多くの宗教に救いやいやしを求められるというのが日本の現状ではないでしょうか。もし願いが叶えられるなら、その宗教はその人にとっては確固たる信仰の対象となるのです。
 確かに病がいやされたり、願い事が聞かれたという宗教を求めるというのは、ある面においては当然の成り行きではないかと思います。
 しかし本来の宗教、あるいは真の宗教の存在意義ということを考えるなら、しるしと不思議さえあれば良いというものではないはずです。
 それはイエス様ご自身が48節で言わた通りであります。
 では、真の宗教(信仰)の存在意義とは何でしょうか。たとえばイエス様のおことばを借りるなら、しるしや不思議を信じたからと言って、そのことがその宗教の存在意義や価値を明らかにしたことにはならないのです。
 この世において、不思議なことが起ることもあります。目に見えない霊的な世界についても不思議で分からないこともたくさんあるのです。しかしこの聖書は明確に教えているのです(参照 第一ヨハネ4章1—6節)。
 なかでも『人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。』は大切なみことばであります。
 この役人は、息子の病のいやしを求めて来たのですが、イエス様はこの役人の信仰を正しく導くために、『あなたがたは。しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。』ということばを言われたと思われます。
 つまり、息子のいやしだけでなく、この役人のみならず家族の者が、まことの神様の救いに導かれるために必要なおことばだったのです。
 ところが、この役人はイエス様が諭されてもなお、息子のいやしを嘆願したのです。
 その時に、役人の信仰は真の救いに至る道に導かれて行ったのです。それは50節のみことばから察することが出来ます。
 それは『その人はイエス様のが言われたことばを信じて、帰途についた。』であります。
 その結果、役人は大きな試練がきっかけとなって、イエス様ご自身を救い主として信じただけでなく、家族の者もみなイエス様を信じたという大きな祝福がもたらされたのです。
 イエスが言われたことばを半信半疑でなく、信じ切る。つまり聖書に書かれているみことばをそのまま信じることが神様から祝福を受ける秘訣なのです。
 実はそれは決して容易なことではない事を信仰生活の中で私たちは経験しているのではないでしょうか。
 なぜなら、たとえ自分の思いとは全く異なる状況であったとしても神のおことばですからと受け入れるという信仰だからです。
 若きユダヤ人ダニエルの信仰です。
『もし、そうなれば、私たちが仕える神は、火の燃える炉の中から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出すことができます。しかし、もしそうでなくても、王よ。ご承知ください。私たちはあなたの神々には仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。』
(ダニエル書3章17,18節)
 私たちは、神様が激しく燃える火の炉からダニエルを救い出されたことに注目しがちです。
 しかし神様はダニエルの信仰に目を留められたことでしょう!
 『あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。』(出エジプト20章3節  
 みことば信仰は、鉄の炉で試されるのです。