クリスマスメッセージ 2013年12月22日(日)『神がおられなければクリスマスはない』マタイ1章2−16節 ルカ2章8−20節

 『神様がおられなければクリスマスはない』
 ルカ2章8−20節 マタイ2章1−16節
               2013年12月22日
 私は小さい頃から体が弱くて、母に連れられてあちこちの病院に行きました。
 高校生のある時にどのような神様かは分からないけれども、天のどこかで私を見てくれている神様がいるような思いで、夜空を見上げながら『なぜこんなにしんどいですか、もっと丈夫な体で、タフな心に生まれたかった。』と言ったことを今も忘れることはできません。
 と言っても神様は目には見えません。ですから、当時の私にとっては神様というのは、おられるような、おられないような漠然とした存在でしかありませんでした。
 さて、私たちの国にはたくさんの宗教があるにもかかわらず、神様について具体的に私に話してくれる人はいませんでした。親からも聞くこともありませんでした。
 やがて社会人になり、入社して間もない頃に職場の先輩から、神はいないということを聞いたのです。先輩は、宗教はアヘンで神に頼る人は幸せにはなれないと言うのです。それを聞いた時は、私は心の中で反発しました。
 それでも先輩は、神はいない、社会を良くして行くためには労働者が立ちあがらないという持論を一生懸命説き続けられた結果、とうとう私は、神はいないという無神論思想や共産主義思想を本気で信じたのです。
 しかし、その決心は私の心がより空しく、より渇き、より満たされないものにして行きました。
 どこかに神様がおられると思っていた時には、悲しい時や、辛い時には祈り心で手を合わせるだけでも気持ちは少しでも楽になったのです。
 しかし神はいないと信じてからは苦しい時や、悲しい時や、寂しい時に少しでも心がいやされ、心が楽になるものがなくなってしまったのです。
 皆さん私たち人間は神様を信じないで生きていけるのでしょうか。
 以前ある本で読んだ話です。日頃神なんかいない、頼れるのは自分だけと偉そぶっていたご主人が、奥様との船旅で大きな嵐に遭遇し、今にも船が沈みかけそうな時に、ご主人は奥様がおられることも忘れて、神様助けてください!と手を合わせたというのです。  
 人のことは言えません。神はいないと自負していた私も、ある正月に京都の平安神宮に行って、鈴を鳴らし、手を合わせて、この一年どうか健康でありますようにと賽銭箱に100円玉を投げるという自分がいたのです。
 聖書には『神はご自身のかたちに人を造られた』(創世記1章27節)と書いているのです。  
 神がおられ、神の御子イエスがこの世界に来てくださったゆえに世界中でクリスマスが祝われるのではないでしょうか。
 さてけさは、神を信じて生きる人生と神はいないと信じて生きる人生は全く違う生き方になるということをけさの聖書箇所から見て行きましょう。
 けさ、読んでいただいた聖書箇所できょうダビデの町に救い主キリストがお生まれになるという知らせを御使いから聞いた羊飼いたちは、町に行ってヨセフとマリヤのいる場所を、一生懸命に探し当てたのです。
 では神の御子の誕生を知らされた羊飼いたちの人生は、どのように変わったのでしょうか。
 まず第一に、羊飼いたちは将来に希望を持って生きることができるようになったのです。
 羊飼いというのは当時の社会では非常に身分の低い存在でした。その頃ベツレヘムは、ローマの総督の命令による人口調査で、たくさんの人が生まれ故郷に帰っていたのですが、羊飼いたちは人口のうちには数えられなかったようであります。
 しかし彼らはどんなに貧しくても、苦しい境遇であっても、毎日忠実(羊の世話は忠実さが求められる仕事なのです)に仕事をしていたのです。
 ところが、神様はまず最初にそのような羊飼いたちに、すばらしい救い主キリストの誕生を告げられたのです。
 今日ではツイッタ―でのつぶやきというものがあります。毎日恵まれた生活をしているにも関わらず、何かとつぶやく人たちが多いのです。
 もうこれ以上物はいらないという豊かで恵まれた生活環境の中にいながら、色々と不満があるのです。
 昨日のNHK番組で若者と消費についての話し中で、「お金や物よりももっと大切なものがあるような気がする」という若者のつぶやきもありました。
 若い人も将来の年金のことや、老後のことや、仕事のことに一抹の不安があるのです。若者だけではないのです。
 多くの人が、これだけ蓄えがあれば将来は安心だと思いたくても、心のどこかに言葉では言い尽くせない不安があり、天変地異(大地震)への不安、必ず来る死の恐れや死についての悩みを持っておられるのではないでしょうか。
 もし、本当に神はおられるという絶対的な信念や確信があれば、将来にも希望や安心が持てるのではないでしょうか。
 しかし、まことの神を知らないゆえの不安や空しさというものは誰の心にもあるのではないでしょうか。
 さて、神と出会い、神がおられることを知った羊飼いでしたが、彼らの貧しい境遇は生涯変わることはありませんでした。しかし彼らは、心に大いなる希望と平安を持って生きる人生へと変えられたのです。
 『羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話しのとおりだったので、賛美しながら帰って行った。』(ルカ2章20節)
 神が人となられた救い主イエスを信じる人生は、真の喜びと平安と永遠の天国への希望が与えられるのです。
 次にユダヤの王ヘロデや王の近くにいた人々が救い主イエスの誕生を聞きつけた時に彼らの人生はどのように変わったのでしょうか。
 マタイ2章に、東方の博士たちが、不思議な星に導かれて、遠い国からベツレへムに来て、宮殿に王様が生まれたと思って、ヘロデ王の所に行ったと思われます。ところが救い主が誕生することを聞いた王は、非常に恐れ惑ったのです。
 ヘロデ王にしてみれば二人の王はいらないのです。そこでヘロデ王は、赤子イエスの誕生の場所を突き止めるように側近の者たちに命じたのです。もちろん救い主イエスを殺害するためです。
 王の側近たちは、救い主の誕生の知らせを聞いても喜ぶどころか、王を恐れ、びくびくしていたはずです。
 イエスの誕生の場所を突き止めないと自分たちの地位や身分の保障はないのです。
 そこで彼らは聖書からベツレヘムでキリストが生まれることを突き止めたのです。
 神を恐れることよりも、自分の身を案じたヘロデ王。神はいらない、神がいれば非常に不都合と考え、東方の博士たちに救い主に出合った時には、居場所を知らせるようにと頼むが、博士たちは御使いの指示通りに、ヘロデの元に戻らずに自国に帰りました。
 それを知った王は怒り、ベツレヘム近辺の2歳以下の男の子を一人残らず殺したのです。
 そのような恐ろしいことを王に仕えていた人々がしなければならなかったのです。
 利己主義、傲慢、冷酷、無慈悲であったヘロデ王にとって神の存在は非常に都合の悪いものでした。
 そして救い主の誕生の場所を突き止めた人たちも、身勝手な利己的な王に振り回されて、神との出会いのチャンスを失うばかりか、幼い子どもたちを殺せという残酷な王の命令に従わざるを得なかったのです。
 悪魔は、神を全く恐れない人間の心を巧みに利用して悪行を働かせるのです。
 先月北朝鮮で50人の公開処刑がありました。機関銃を使って一斉に処刑された現場は想像を絶する惨状となりました。
 またつい先日も側近の叔父である張成沢チャン・ソンテク)も機関銃で処刑されました。
 北朝鮮の最高指導者金正恩キム・ジョンウン)は神を恐れない無神論者ゆえになす悪行ではないでしょうか。
 また神風が味方と豪語した軍部たちによって戦争の道を選んでしまった日本は実に悲惨で、悲しい暗黒の道を歩んだのです。
 無神論思想である共産主義の中国は、今日悩める大国となっているのです。言論の自由民主化を求める声が高まっています。
 ある共産党員は、心の悩みで相談に来る人をクリスチャンに依頼するという実情もあるので(NHKスペシャル)。
 現在の中国にはクリスチャンが8000万人いると言われているのです。神はいないという前提にある共産主義ゆえに、むしろ人民の心は渇き、神を求める機会となっているのです。
 私自身も無神論者と言えば言うほど、心は空しさで満ちました。罪深い行為もばれなければ大丈夫と思っても、私の心の中にある良心は騒ぐのです。心の満足を得るために色々なことをしても一時的な満足感しかなかったのです。 
 実はそのような迷える者や悩める者たちを救うために来られたのが神の御子キリストです。
 私は26歳の時にイエスを神の御子と信じた時から私の心には今も変わることのない神からの確かな平安が与えられているのです。
 クリスマスはまことの神様を知る素晴らしい機会です。そして何のためにキリストがこの世界に来られたかを知る良い機会なのです。
 その答えはこの聖書に明確に記されているのです。
『神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。』 (第一ヨハネ4章9、10節)