『主の栄光を求める信仰』ー試される信仰ー ヨハネ11章1ー6節 2014年1月26日(日)

 「主の栄光を求める信仰」 14.1.26
   ー試される信仰− ヨハネ11章1−6節
 私は年に一回の定期検診を受けています。先日の検診で胸に以前からの白い影が大きくなっているということで、翌日にCTを撮ることになりました。CTを急がれているように思って、私は医者に初期の肺がんですかと聞きました。「断定はできませんがとにかく調べてみましょう」と言われた言葉が妙に引っかかったまま1週間後(先週の火曜日)の結果が分かるまで気持ちが落ち着きませんでした。幸いに結果は写り方によって大きく見えたということでほっとしました。ただ少し肝臓の数値が高いということで経過観察をすることになりました。
 将来どのような病気になるかは分かりませんが。しかし病気を患うことにおいて非常に悪いイメージを持つ人も少なくありません。もちろん喜ばしいことではありませんが、その人の不摂生の結果病になるというのは良いこととは言い難いとしても、病気の結果もたらすものはすべてマイナス面だけでなく、プラス面もあるということを知るというのは大切なことのです。
 クリスチャンが病気をすることについて、注解者のライリーは『病気は神が私たちを嫌っておられるしるしでなく、いやむしろ、多くの場合、たましいの救いのためだという点である。それによって私たちの思いは、この世から離され、上にあるものに向けられる。私たちを聖書に向かわせ、よりよく祈ることを教える。それは信仰と忍耐とを実証す機会となり、キリストにある望みの真価を明らかにする。そういうわけだから、病気で床に伏す場合、忍耐を持ち、喜びを失わないようにしよう。病の折にも、健康な時と同じように、主イエスは私たちを愛しておられるという確信を持ち続けよう。』と言っているのです。
 さて、ベタニヤという村に住んでいたマルタとマリヤの二人は敬虔な信仰者でありました。おそらくイエス様もしばしばこの家に訪れられたと思われます。イエス様にとっては、息抜きのできる場所ではなかったのかと想像するのです。
 ところでイエス様は、マルタ、マリヤ、そしてラザロを愛しておられたのです。そのような中で、愛するラザロが重篤な病気にかかりました。
 そこで、二人の姉は、使いをイエス様のところに送りました。その伝言の内容が3節です。『主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。』
 先ほど姉たちの敬虔な信仰と言いましたが、この伝言の中に信仰の姿勢を少し伺うことができるのです。というのも彼女たちはラザロが病気ですと言っただけで、しかもあなたが愛しておられる者という言葉だけでイエス様には十分と伝わると信じていたと思われるのです。
 たしかに祈りにおいては具体的に祈るようにとよく耳にするのです。ですから、この場合は、「弟のラザロが非常に重い病気にかかり、すぐにでもイエス様に来てもらって、病気を治していただきたいのです。」と緊急性をより具体的に伝言してもよいところであります。
 ところが、主イエス様は死に至る病をもいやされるお方であるという姉妹たちの信仰は、ラザロが病気ですと言うだけで十分だったように思われます。
 私の妻が2000年に難病を患った時に、神様に病気の詳細(再生不良性貧血の症状)を告げて祈ったのではなく、ただ「主よ。妻が大変な病気になりました。妻を助けてください。」と祈るだけでした。
 もちろん私が信仰的だからそのように祈ったというのではありません。ただ祈るしかほかなかったというのが現実でした。妻が入院した当日に、主治医から、「今日明日が山場です。できるかぎりは尽くしますが、今日の医学ではどうにもできないのです。」という状況を伝えられたのです。
 その直後主治医は、「あとは神頼みです。(主治医クリスチャンであることを後に知るました)」と言われたとき、混乱していたなかではっと我に返り、そうかクリスチャンには祈りがあると思って、牧師たち、そして教会の皆様に祈りの依頼をしたのです。
 その後3ヶ月間の入院でしたが、何と妻は馬の血清(実験段階)で九死に一生を得たのです。
 いかなる状況においても、神様を信じているというのは何という幸いであり、救いであり、心強いことでしょうか。
 私たちの信仰においてイエス様が友であるという幸いがここにあるのです。
 マルタとマリヤにとってイエス様は最高の友であるゆえに、多く語らずとも、必ず最善を尽くしてくださるという信仰を『あなたが愛されている者が病気です。』という言葉の中に垣間みることができるのではないでしょうか。
 もちろん具体的に祈ることは大切です。しかし祈りにおいて多くを語らずとも(しんどくて、辛くて祈れない時もあります)、神様に全くおゆだねする信仰はさらに大切ではないかということをこの所から教えられるのです。
 病をいやされるという信仰においてまず第1に、神様に対してどのように祈っているのかということにおいて信仰が試されているのです(3節)。
 次に第2は、イエス様が遅れられたということにおいて信仰が試されているのです(6節)。
 イエス様がラザロのもとに行くのを遅れられたということにおいて、マルタとマリヤはどのように受けとめたのでしょうか。愛されていると思っていたけれども、私たちのことにはあまり関心がなかったのではないかと思ったでしょうか。あるいは、イエス様は私たちのことを忘れられているのではないかと考えたでしょうか。
 もし私たちを愛してくださっているなら、何をさておいても真っ先に駆けつけて来てくださるはずと、彼女たちは心の中で色々と考えたのではないかと思われるのです。
 しかし遅れられることは拒絶ではなく、忍耐して待つことを学ぶ時なのです。姉妹たちは主イエス様がなかなか来られないために、色々と勘ぐり、悪いことばかりを考え、否定的な思いになる可能性は十分あったと思われるのです。
 少なくとも私においては、遅延においては否定的なことをあれこれと考えてしまう傾向があります。
 場合によっては、神様は私たちを見捨てられたのではないか。あるいは、神様の愛を疑ってしまうということもあるかも知れません。置かれている状況が厳しければ厳しいほど神様に対して不信を抱きやすいものです。
 430年間ものエジプトでの奴隷から脱出したイスラエルの民が、荒野において食べるものがないと知った時に、冷静沈着になることは非常に困難なことでした。指導者であるモーセにつぶやき、神をのろい、神への不信をあらわにしたのです。挙げ句の果ては偶像崇拝にまで落ち込みました。
 このように、置かれている状況の判断だけでは、神様の愛を深く理解すること難しいのです。というのは感情に支配されると神様が見えなくなってしまうからです。
 やはり信仰者は神様のみことばに立たなければその信仰は振るわれるのです。
 厳しい状況や追い込まれた状況、あるいは希望のない状況に目を留めすぎるのではなく、みことばにある希望に心を留めるのです。つまりみことばは何と言っているのかということです。
 『私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。』(詩篇62篇7、8節)
 この箇所からは、神を信じる者にとっては、遅れることによる状況の悪化は最終的な結論ではなく、あくまでも途中経過であって、神様は最善の結論を用意してくださっているという信仰が求められるのです。
 最後に3つ目のことは、主の栄光を求める信仰(4節:40節)の大切さです。
 4節を見ましょう。『この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。』
 ハイデルブルグ信仰問答のなかにおいて、クリスチャンが信仰において一番大切にすべきこと何かという問に対して、答えは『神様の栄光を求めること』でした。
 信仰と病気をいかにとらえればいいのでしょうか。病気にかかることは、祈りが足りないからだと戒める新興宗教もあるのです。
 裏返して言うなら神様が良しとされるまで祈るなら、その人は病気にはならないということになるのです。
 しかし信仰とは、病気にならないことを重要視するものではないのです。病気にかかったからといって、その人の信仰に落ち度があると結論づけるのには無理があり、それは正しい信仰の捉え方ではないのです。
 私たちの信仰において重視されることは、私たちと信じている神様と自分との関係がどうであるかということです。
 ラザロの病気は、主イエス様が栄光を受けられるためのものでした。たとえ信仰者がいかなる厳しい状況の中にあったとしても、神様は最悪を最善に変えられ、ご自身の偉大さを現されることによって、栄光を受けられ、神の御名がほめたたえられるのです。 
 野村伊都子という方のあかしです。彼女は若い時に、腎臓結核と膀胱結核を併発し、激痛は昼夜続きました。その中で彼女がしていたことは、目の不自由な方の点訳でした。人工膀胱、その後、肝硬変を病み、水一滴のどを通しても、転げ回る苦しみの中で『主よ。今日の重荷は何ですか。』と彼女が書いた詩の一節です。キリストの十字架の苦しみに少しでもあずかろうとする姿が彼女の心の中にあったのではないでしょうか。  
 辛い時もあります。悲しい時もあります。苦しむ時もあります。思うようにいかない時もあります。不安な時もあります。恐れる時もあります。それでもなお神様の栄光のために生きる信仰者になりたいものであります。