『イエス様の涙』ー解決の鍵はイエスにあるー ヨハネ11章30ー46節  2014年2月2日(日)

 『イエス様の涙』 −解決の鍵はイエスにある−           
    ヨハネ11章30—46節   14.2.2(日)
 前回を振り返りますと、ラザロが危篤状態となり、姉のマルタとマリヤは使いをイエス様のもとに送りラザロが病気であることを知らせました。
 ところがイエス様はすぐには行かれずに、同じ場所に2日間留まられたのです。しかし、その2日遅れの結果、ラザロは亡くなってしまったのです。
 以前私たちの教会にH先生を伝道集会にお迎えした時にお話されたのですが、先生のお子様が重い病気になられて、当然急いで子どもの所に行くべきところでしたが、ちょうどその時に地方の教会で伝道会の最中でした。
 残念なことに、お子様の所に行かれた時にはすでに息を引き取れていたのです。その悲しい経験を先生は涙ながらにメッセージで語っておられました。
 非常に辛い経験をされたのですが、そのような辛い悲しみの中にあって、イエス様を信じている者の希望についてお話をされたのです。
 それは、イエス・キリストを信じる者に与えられる永遠のいのちと天国の約束です。 
 やがて我が子と天国で再会できるという希望は、先生がそのお子様の最後を看とれなかったという深い悲しみや、後悔の念から立ち直るための大きな励ましになったそうです。
 さて、イエス様なら急いでラザロのもとに行かれて、彼の病気をいやし、マリヤとマルタにラザロの死という悲しい経験をさせることはなかったはずです。
 ところが、イエス様は2日も遅れられてマルタたちのところに行かれたのです。すでに時遅しでした。
 しかし主は『彼の病気が死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものであり、イエス様ご自身が栄光を受けるためである』(4節)と言われたのです。
 マルタとマリヤにとって愛するラザロの死は、何と深い悲しみでありつらい出来事でしょうか。
 ところが何とイエス様にとっては、ラザロの死はご自身が栄光を受ける時であり、しかもラザロの死は単なる眠りであり、これから彼を眠りからさましに行くと言われたのです。それは弟子たちにとっては全く理解のできないものでした。
 そのような中で、イエス様は姉妹たちのいるベタニヤに着かれたのです。そのときマルタはイエス様のもとに来て、『主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。』(21節)と自分の気持ちをイエス様にストレートに伝えたのです。
 彼女のことばの裏にある気持ちとは、おそらく、どうしてもっと早く来てくださらなかったのかといういらだった気持ちと、ラザロを愛しておられるのにすぐに来られなかったのはどうしてですかというイエス様に対する不信の思いがあったのではないでしょうか。
 確かに私たちも、何か不測の事態や、思いがけないこと、あるいは大変なことが起こった時に、気持ちは動揺してしまって、落ち着きを失い、そしてどうしてという疑問や、場合によっては不信感を抱くという経験はないでしょうか。
 そのような状況において、なお心静めて、神様を信じて、待ち望むことは決して容易なことではないのです。
 神様を信じているのにどうして悲しい経験や、辛い経験をしなければならないのかというのは、だれしもが持つ信仰者の疑問の一つであるかと思います。
 しかし信仰を持つと、いかなる試練にも会うことはないという保証は聖書のどこを探しても見当たらないのです。いやむしろ試練や苦しみを通してあなたの信仰が練られて行き、そしてやがては信仰の成長という実を結ばせると聖書は教えているのです。参照:ヘブル書12章11節、ペテロ第一1章6、7節)
 確かにラザロの死という悲しみと辛い経験を通して、主はマルタの信仰を引き上げようとされたと思われます。
 イエス様は姉と妹から同じことばを聞かれたのですが(21、32節)、マルタには、ラザロはよみがえるという信仰に立つように(25、26節)、妹のマリヤには何も言われずに、泣いているマリヤを見て霊の憤りを覚え、心の動揺を感じられたのです。
 というのは、イエス様は同じ悲しみと苦しみの中にあっても、その人によってその対応が違っていたのです。
 つまり、その人に応じて最もふさわしい、あるいは最も良い方法によって対応してくださるお方であるということです。
 姉のマルタの場合は、ラザロの死を信仰的(22、24節)に受けとめていたようであります。
 ですから主は、マルタの信仰にチャレンジを与えられた結果、マルタは信仰によって応答したのです(27節)。
 しかし、マリヤはラザロの死によって心がひどく動揺してしまって、弟の死をただ感情的にしか捉えることができなかったようです。(泣く→嘆く31節、33節)。
 そしてマリヤと一緒に来たユダヤ人も泣いているのを見て、主は霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、涙を流されたのです(33、35節)。
マリヤがラザロの死に対して、非常に悲しみ、感情的に取り乱している様子が伺えるなかで、主はマリヤに対して姉のマルタと同じように信仰による対応はされなかったのです。
 主はマリヤの涙に心を動かされて、涙を流されたのです。聖書は『霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて』と書かれているのですが、実に難解な表現であります。
 これは、イエスというお方は神でありながら、人としての性質を持っておられたゆえに、私たちの心の深い所まで理解できるお方であり、私たちの悲しみや苦しみに対して同情できる方であり、あるいは共感できるお方であります。
 ヘブル書の著者はイエス様の心について『私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。』(ヘブル書4章15節)と語っているのです。
 さて、これまでお話しさせていただいたところから3つのことが教えられるのです。 
 まず第一のことは、主は私たちの心の中にあるすべてのことを受けとめてくださる方であるということです。
 それゆえにヘブル書の著者は、『ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。』(4章16節)と勧めているのです。
 リビングバイブルでは『ですから、躊躇せず、思い切って、神の王座に近づいてあわれみを請い、必要な時に必ず与えられる恵みを、いただこうではありませんか。』と訳されています。
 次に第2のことは、主は私たちを心から愛してくださる方です。
 ユダヤ人たちはイエス様の涙を見て『ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。』(36節)と口々に言ったのです。
 イエス様は、自らの手によってラザロを生き返らせることができることを承知しておられたにもかかわらず、ラザロの死に対して心を痛められ、悲しまれ、涙を流されたのです。
 すぐにラザロが生き返るなら何も悲しむことも、泣く必要もなかったはずです。しかし主は涙されたのです。
 その涙の意味とは、人の死は実に悲しいものであり、私たちは死という悲しい現実を身内や親しい人だけでなく、自分もまた経験しなければならないものであり、だれも避けることのできない忌々しい現実なのです。
 また死は実に不可解なものであり、そして罪の結果もたらした死という悲しみを背負った人間への深い同情心の現れを意味するのではないでしょうか(37節)。
 そして主はやさしく同情心があるというだけでなく、罪の結果、肉体の死だけでなく、たましいの永遠の死をもたらす人間の現実に直視され、心の動揺を覚えられ、深いあわれみの心を持って、私たちを救うために人となられ、十字架による罪の身代わりの死によって私たちの罪をあがなわれたのです。
『神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。』(第1ヨハネ4章9、10節)
 人は死で終わりではなく、神を見上げるなら永遠のいのちという光を見ることを、ラザロの死からの生き返りと、主ご自身の死からのよみがえりを通して私たちに示しておられるのです。それらは神の愛の実践によって実現したのです。
 最後に3つ目のことは、主はすべてのことに解決を持っておられる方であるということです。
 34節で主は『彼をどこに置きましたか。』と言われました。マルタやマリヤ、そしてユダヤの人々にとってラザロの死に対して全く無力であります。
 このイエス様の質問は実に虚しいものであったにちがいないのです。先立たれた人に対して、悲しみの中にある人に慰めの声をかけるのが、私たちができる精一杯の気持ちであります。
 ご遺体をどこに置きましたかと聞く人はだれもいません。死に対してはもはや何の解決策もないのです。死ねばすべてが終わりなのです。
 しかし、イエス・キリストには不可能はないのです。信仰によって応答したマルタも『主よ。もう臭くなっておりましょう。4日になりますから。』とこの世の現実に心が全く捉えられていたのです。
 主は、マルタに向かって『もしあなたが信じるなら、あなたは栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。』(41節)と戒められたのです。
 そして天のお父様に祈られ、ラザロに声をかけられたときにラザロは生き返りました。
 主は死の問題をも解決できるお方です。それ以外のことで、つまり私たちが生きてく中でのすべての悩みや、悲しみや、苦しみや、思い煩いであれ、いかなる試みの中に置かれたとしても、様々な問題に囲まれたとしても、主はそのすべてのことに解決を持っておられるお方なのです。
 しかも一人一人にふさわしい方法で対処してくださるお方なのです。