『神の栄光がほめたたえられるために』ー選びの祝福ー エペソ人への手紙1章1−6節 2014年2月23日(日)

「神の栄光がほめたたえられるために(Ⅰ)」    
     —選びの祝福—  2014年2月23日
               エペソ書1章1−6節 
 まずパウロがこの手紙を書いた目的について、ごく簡単に触れておきます。この手紙はパウロがローマの獄中において、エペソにある異邦人クリスチャンの諸教会宛に書かれたものであります。そして彼らが(エペソにある教会の信者)が陥っている誤り(5章6節:「むなしいことばにだまされてはいけません」)に対して、気づかせて、正しい真理の上に立たせることを目的として書かれたものであります。
 さてこの1−14節において、3つの祝福を見ることが出来ます。
まず第一に1−6節からは選びの祝福です。第二は7−12節からはあがないの祝福です。最後は13−14節からは信仰の祝福です。 
 そして1節から14節を3つに区分した理由は、6節、12節、14節の終わりの「神の栄光がほめたたえられるためです。」が何ゆえにほめたたえられるのかをそれぞれに説明されているからであります。
 3回に分けてのメッセージの主題は『神がほめたたえられるために』であります。
 そして、けさの副題は「選びの祝福」であります。
 6節の終わりの「恵みの栄光がほめたたえられるためです。」は、4、5節を受けての神様への賛辞と思われます。
 そして、パウロが神に賛辞を送る理由は、父なる神によるキリスト者の選びにあるのです。それが4節であります。『すなわち、神は私たちの世界の基をおかれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。』
当時パウロイエス・キリストに出会い、宣教の働きに携わっておよそ30年が経過していたのですが、その30年の間にパウロは物質的な祝福についてはあまり触れることはありませんでした。伝道の傍らテントづくりをして生計を立てていたぐらいですから、物質的にはそれほど恵まれた生活を送っていなかったと思われます。(参照:ピリピ4章11−17節)
テントづくりはパウロにとってはあくまでも副業であり、それほど収入となるものではなく、それは伝道の働きのゆえに他者に迷惑がかからないようにするためのものでした。
 ですから、彼の生活面の苦労は手に取るように分かるのです。しかも、伝道の働きのために迫害を受けて、しばしば命の危険に遭遇し、多くの苦難を経験して来たのです。
 その彼が、この手紙において何度も繰り返えされている言葉が、『神がほめたたえられますように。』あるいは『神をほめたたえるために』という言葉であります。
 もし私たちが信仰のゆえに何か犠牲を強いられたときにどう思うでしょうか。あるいは信仰のゆえに命の危険にさらされた時に、神様に対してどのような言葉を発するでしょうか。
 かつて私は、辛い経験や、しんどいことや、悲しい経験をした時に出て来た言葉は、神様の栄光をほめるという心の余裕もなく、それどころか神様へのつぶやきや不平不満でした。
 今でも、神様に申し訳ないと思っていることは、信仰を持ったのになぜこのようなことになるのですかというつぶやきでした。
 まさしくエジプトの奴隷生活から脱出したものの荒野で試みられるイスラエルの人々の不信仰と同じようなものでありました。
 そのような私でしたが、信仰を持って38年になります。パウロと同じ信仰を持っていても大きな違いがあります。もちろんパウロと比べること自体大きな間違いとは思いますが、敢えて言うなら、信仰の程度の差があることは歴然であり、明白であると告白しなければなりません。
 もちろん私自身も信仰を持ち始めの頃から比べるなら、多少なりとも成長はして来たのかなと思っております(いやそう思いたいです)。
 しかし礼拝の時だけでなく、普段の生活の中でパウロのように、主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますようにという神様への賛美の思いがどれだけあるのかなと、パウロの手紙からを学んで思わされるのです。
 神様からの霊的な、あるいは物質的な祝福に対して心から感謝を言い表すというのはそれほど難しいこととは思われないのです。
 しかし心から神様がほめたたえられるように、あるいは神の御名があがめられるように、そして神様の栄光がほめたたえられるようにという神様への賛辞の足りなさを覚える次第であります。
 それは私たちが神様に祈るときにおいて大切なことであります。神様に色々とお願いする前に、まず神様をほめたたえて賛美し、神様を心から喜び、そして感謝するというのは、祈りにおいての基本であることは承知のことであります。
 ではパウロがいかなる状況においても、いつも神様を心からあがめることができたわけとは何でしょうか。それは自分が救われていることがどれほど素晴らしいものであるかという認識の深さにあったのではないでしょうか。
 反対に、救いがどれだけ素晴らしいものであるかという認識が浅いほど、神様への感謝や賛美が希薄なものになるように思われます。
  では、パウロの救いについての認識の深さとは何でしょうか。それは4、5節であり、けさのメッセージの中心聖句であります。それは神様による選びの祝福であります。
 パウロの救いの認識の深さは、救いは神の一方的な恩恵であるという捉え方であります。
 かつてパウロはクリスチャンを迫害する側にいたのです。パウロにとってイエス・キリストは神ではない、イエスを律法の違反者として、また神を冒瀆するやからであると信じていたのです。
 しかしダマスコの途上で、天からのまばゆい光の中からキリストの御声を聞いたのです。そしてその方こそまことの生ける神の御子キリストであることを知ったのです。
 それは彼の努力や願いや功績によるのではなく、神からの一方的な恵みであったのです。
 確かにパウロは選びの器であると主イエス様御自身も言われたのです。彼のような神との出会いはまさに選びの祝福であると言えるでしょう。
 では私たちはどうでしょうか。皆さんの中で、自分の努力やがんばりで、あるいは熱心さで、また熱い願いで神様の救いにあずかれたという人がおられるでしょうか。
 私はそのような人はひとりもおられないのではないかと思います。もちろん神を求めたのは自分からです。そして神を信じる決心をしたのは自分の意志であります。しかし神様の救いにあずかったというのは神様の恩寵によるのです。
 ところで救いということにおいて、皆さんの中には自分は神様に選ばれていたのではないかと思われたことはないでしょうか。
 私もそのように思うことが時々あるのです。無神論者を自負し、神を信じる人は弱い人間だと決めつけ、そのような信仰に頼ることは絶対ないと強く思っていたのですが、一方心の中では、神様の存在の有無についての葛藤はあったのです。
 その証拠に無心論者と言いながら、正月には京都の有名な神社に行って、新しい年の守りを少ない賽銭でお願いしていたのです。
 これが私の実に曖昧な神観念であり、信仰心でありました。おおかたの日本人は私のような神観念や信仰心を持っておられるのではないでしょうか。
 しかしパウロの救いの神学は実に確かなものでありました。それは4節によると神様による天地万物の創造以前から、すでに神様の救いに選ばれていたと語っているのです。
 しかもその人が過去においていかなるものであったとしても、つまりいかなる悪をも問うことなく、ただイエス・キリストを罪からの救い主と信じることによって、罪は赦され、神様の子どもとされ、しかも聖なる者と認めて(義認)くださるという救いであります。
 そして、その救いはイエス・キリストによる十字架による罪の身代わりの死という犠牲によったのです。
 自分のいのちを犠牲にして見知らぬ人を救うというのは、決してたやすくできるものではありません。
 ところが天におられる神様は、罪によって、神様との交わりが閉ざされた者に対して、あるいは、罪の結果、神様から永久に追放されるという滅びの運命に定められた者を救うために、いのちの犠牲さえも惜しまれなかったのです。
 しかも神様が罪を犯した人類に対して、色々と考え悩んだ結果、救いの計画を持たれたのでなく、人類が罪を犯かすはるか以前に、すでに救いの計画を持っておられたのです。しかも救おうとする人をも前もって選ばれていたと捉えていたのがパウロでした。
 なぜ神様は私を選んでくださったのか。それは人よりも行いが良かったからではありません。いや私よりももっと立派な人も多くおられると思います。
 そして私よりも正し生活を送っておられる方もおられるはずです。にもかかわらず私を選んでくださったのはどうしてでしょうか。
 5節を見ましょう。『神のみむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしょうと、愛をもってあらかじめ定めておられました。』
 私の救いをご自身のみむねとしてくださった神様こそ、心から感謝するに、あるいは心からほめたたえるのにふさわしいお方なのです。
 神様が、なぜ私を選んで救ってくださったのかを知るすべはありません。その理由は分からないとしても、救われていることの事実に感謝と喜びをいつまでも持ち続けて、パウロのように心から神様の栄光をほめたたえる者となりたいものであります。