『神の栄光がほめたたえられるために』ーあがないの祝福ー 2014年3月2日(日)

「神の栄光をほめたたえるために(Ⅱ)」—あがないの祝福— 
 エペソ1章7−12節   14.3.2
 私が5歳ぐらいの時のことです。近所の同級の男の子に石を投げつけて、それが頭に当たって怪我をさせてしまいました。
 その時のことで今も覚えていることは、祖母が卵入りの箱をその友達の家に持って行ったことです。ところが、友達がどの程度の怪我をしたのか、そして家に帰って叱られたのか、また怪我をさせた友達に謝ったのかどうか、あるいはその友達が赦してくれたのかどうかも覚えていないのです。
 しかし、その後大人なるに連れて分かって来たことは、祖母がなぜ卵を友達の家に持って行ったのかということでした。今では卵は安価なものですが、当時はバナナも高価なものでしたが、卵もそれに劣らず高価なものでした。その高い卵を、数個ではなく箱入り(籾殻の入った)で買ったのですから、祖母は私のために高い出費をしてくれたのです。
 さて、祖母がこの箱入りの卵を友達の家に届けたということで、両方の家族において何か重要な出来事があったということが後々分かって来たのです。
 それは赦すことと赦されることです。つまり怪我をさせた友達が私を赦してくれたということではなく、祖母が高価な箱入りの卵を持って行くことによって、友達の家の者が、その行為に免じて息子さんを赦しましょうということです。もちろん卵をいただいたから赦しますというのではなく、祖母が私の代わりに謝ってくれていたからです。
 つまりそこで起こった重要なこととは、身代わりによる謝罪と相手方の赦しという出来事です。
 さて私が友達に怪我をさせたという出来事から7節に出てくるあがない(買い戻し)という言葉の意味についての理解の助けになればと思いお話をさせていただきました。
 けさは7−12節から、神様がなされたあがないについて、もう少し詳しく学んで行きましょう。
 まず7節から見て行きましょう。7節の「この御子のうちにあって」というみことばをどのように理解すればいいでしょうか、それは御子イエス様が私たち人類の仲介者であるということであります。
 では何の仲介者でしょうか。それは罪を赦すための仲介者であります。冒頭の証しですが、なぜ私が友達に石を投げたのかは記憶にないのですが、友達に石を投げて怪我をさせたことは悪い行為であり、人を傷つけることは傷害罪です。子どもであるということで大目に見てもらえるのですが、大人なら傷害罪で訴えられるのです。もちろん今日では子供同士であっても裁判沙汰になりかねません。
 どちらにしても友達を怪我させたという行為は罪であります。しかし祖母が私の仲介者となることによって私の罪は赦されたのです。
この7節の罪のゆるしとは原罪(罪の性質の全般)のゆるしではなく、もろもろの過失による帳消しです。
 旧約時代においては、イスラエルの民は動物の種類の違いといけにえのささげ方によって個々の罪の赦しを受けていたのですが、7節の罪とはいわゆるハマルテイヤ(的はずれ)ではなく罪過(パラプトーマ:踏み外して落ちる、堕落、不信仰、律法違反、法律違反等 )であります。2章1節では罪と罪過とに区別されています。
 ですからここでは、個々に犯した罪のゆるしを取り扱っているのです。つまり私たちが犯した罪は、人に赦されるだけでなく、神様の赦しをも受けなければならないということなのです。
 祖母の仲介によって私の罪は赦されたのですが、神様にも赦される必要があったのです。しかし幸いなことには、イエス・キリストが十字架で流された血によって罪はすでにあがなわれた(買い戻し)のです。それは神の豊かな(リッチイズ:富・財宝)恵みによるのです(7節)。
 次に8節を見ますと、パウロはその豊かな神の恵みを私たちの上にあふれ(豊かであり余る、物惜しみなく、気前良く)させてくださったと証言しているのです。
 次に、あらゆる知恵と思慮深さをもってとは、聖書協会訳では「神はその恵みを増し加えて、あらゆる知恵と悟りとを私たちに賜り」と訳している。知恵と思慮深さを啓示したもう神ご自身の態度とはせず、我々に与えられる賜物としている(参考1章17、18節)。  
 そして9節では、それらをもって、神のみこころの奥義を私たちに知らせてくださったと言っているのです。それは神様の前もってのみむね(5節のみむねと同語)であったのです。
 この7、8節にある恵みとは本来受け取る価値(資格)のない者が受け取ることであります。罪深い者が、イエス・キリストを信じるならもはや罪のない者とみなし、それどころか義とされるところに、罪の赦しや罪からの救いは恵みであると言われる理由であります。
 『あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは。自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。』(エペソ2章8、9節)
 このような神の奥義は、上より与えられる知恵と思慮深さによってのみ理解できるものであります。
 次に10節では、神様は、人類に罪からの救いをもたらすキリストの十字架の死という身代わりの時(時間のクロノスではなくカイロス:神の定めの時)を定められ、そしてキリストを信じるすべての者、そして御使いもすべての者がキリストを中心にして、一つに集められるのです。それはやがて永遠の御国で実現される光景でもあるのです。
 11節は4、5節のみことばに準じているようです。御国を受け継ぐ保証はイエス・キリストによるあがないによる保証にあるのです。 
 そして、イエス・キリストによる救い(あがない)は神ご自身の前もって(創造以前)の目的であり、あらかじめ選ばれた者の救いであったのです。
 最後に12節でパウロは、ユダヤ人クリスチャンについて言及しています。それはイエス・キリストによる素晴らしい救いを知っているゆえに神の栄光をほめたたえるのであり、そして今日も神の栄光がほめたたえられるために、イエス・キリストによる救いが人々に提供されているのです。それは私たちの信仰のあかしとみことばの宣教によるのです。
  
 けさは、イエス・キリストによる罪の身代わりによる救い、つまりあがないについて学びました。あがないとは買い戻しという意味であります。それは奴隷市場から、ご主人が奴隷を買ってその奴隷を自由にしてあげることです。
 あがないという行為の中心は、犠牲を払うことにあるのです。主人が代価を支払って、奴隷を自分のものにすることができたのです(主イエス様は、私たち罪人のために御体といのちを十字架でささげてくださったのです)。
 祖母の高価な卵の箱折を買う行為が犠牲であります。可愛い(不憫な?)孫の罪が赦されるために祖母は犠牲を払ってくれたのです。しかも何も知らないうちに、そして頼んでもいないにも関わらず、祖母は卵の箱折を持って友達の家に行ってくれたのです。それだけでなく、私の代わりに謝ってくれたのです。
 にもかかわらず、私は祖母に有り難うと言うこともなく、それどころか中学生や高校生の時には、痴呆の祖母に対して、つらく当たっていたことを今も後悔しています。感謝するにもすでに他界しているのです。
 でも天地創造前から私たちを救いに選んで下さった神様は生ける神様です。そして永遠に存在されているお方ですから、いつでも、どこにおいても賛美し、神の栄光ほめたたえていきましょう。