『神の栄光がほめた耐えられるために』ー信仰の確信ー 2014年3月16日(日)エペソ1章13、14節

「神様の栄光がほめたたえられるために」
 −信仰の確信− エペソ1章13−14節14.3.16
 バプテスマクラスにおいて、特に力を入れるのは信仰の確信についての学びの時であります。信仰の確信の学びが重要であるのかは言うまでもなく、もし信仰の確信が不十分であるなら、心から神様をほめたたえることができないのです。あるいは主に喜ばれる信仰の歩みをすることが難しくなるのです。そして信仰の歩みにおいて非常に安定に欠いたものとなるからです。
 では信仰の確信を持つためにはどうすればいいのでしょうか。
 けさは信仰の確信についてみことばから学んで行きましょう。
 ある人はイエス様を信じますと告白したにも関わらず、どういうわけか信仰の確信が持てないということがあります。なかには本当に神様がおられるのかなと時々疑うこともあると正直に自分の気持ちを話される方もおられます。
 さらに、イエス様を信じて、罪赦され、神の子どもとされ、永遠のいのちが与えられたにもかかわらず、何か試練に会うと信仰の確信がぐらついてしまう。あるいは信仰生活が負担になり、信仰そのものが揺らいでしまうというクリスチャンもいるのです。
 では一体どこに問題があるのでしょうか。  一番の問題点は、信仰の確信を感情で捉えているというケースです。
 神様を信じた結果、救われた気がします。あるいは罪赦されて気持ちが以前よりもおだやかになりました。という具合に救いを気持ち(心)の変化であるという捉え方です。もちろん信仰の結果、感情の変化も伴いますが、しかしそれだけで救いの確信の基準(土台)とするなら、その人の信仰は非常にもろいものとなります。
 先ほども言いましたように、ひとたび試練や困難に遭遇すると信仰の確信があやふやになるのです。
 ここで大切なポイントがあります。それは、信仰の確信は持つべきというものではなく、与えられるものであるということです。つまりそれは、主観的なものではなく客観的なものであるということです。
 では信仰の確信をしっかりと持つための客観的なこととは何でしょうか。けさは信仰の確信のための4つの客観的事実について学びます。
 第1は、聖書の約束です。第2は十字架の事実です。第3は聖霊の証しです。最後は心の変化です。
 まず第1に、何よりも救いの確信についての大前提はこの聖書がどう言っているかです。
 パウロは13節において『真理のことば、すなわち救いの福音を信じたことによって』と語っています。つまり聖書に書かれていることを信じた結果救われるということなのです。
  そこには聖書自身の絶対的な権威と真実と誠実であるという証言があり、さらには聖霊様の保証という確かな後ろ盾があるのです(14節)。
 聖霊に関しては後ほど学びますが、私たちが手にしているこの聖書は、神の霊感によって綴られたものなのです。
 第2テモテ3章16節『聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。』
 この霊感とは息吹です。つまり神様の息吹き(霊の働き)によって書かれたものであります。
 よく言われることですが、聖書は神様からのメッセージでありラブレターです。ですから神様は聖書に書かれてある約束は必ず果たされるのです。もしそうでなければ、聖書は偽物扱いにされて、この世界から抹殺されてしまったはずです。しかし聖書は毎年世界のベストセラーを維持しているのです。
 第一は、神のことばである聖書の約束を信じることが、信仰の確信を持つための大前提であるということを見ました。
 2つ目は十字架の歴史的事実にあります。それはイエス・キリストが私たちの罪の身代わりとなられて死なれたという聖書に記された事実に基づくものです。
 この身代わりということについて考えて見ましょう。例えば、だれかに多額の借金をしたとします。ところが有り難いことにその借金を全部肩代わりしてあげるという人が現れたとします。
 その人は借金を抱えている人に、私があなたに代わって支払いますから心配はいりません。大丈夫ですと言われるのですが、本当に大丈夫なのかなと疑ってしまいます。
 というのは、その人の言葉だけしか聞いていないからです。借金をした人は、本当に借りたお金がちゃんと返されたのかを確認したいのです。そして貸してもらった人からもう借金はなくなりましたという承認のことばがないと不安になるのです。
 つまり聖書の約束が確かであるという客観的な事実を必要としているのです。
 イエス・キリストを信じて救われるという聖書の約束は、今からおよそ2000年前に、エルサレムにおいてローマの総督ポンテオ・ピラトによって十字架刑を受けられたという歴史的事実によって私たちは救いの確信を持つことができるのです。
 このような私たちの罪が赦されるための方法を考えられたのは神様ご自身です。ですから私たちは、私たちの罪という大きな借財を、イエス・キリストが十字架によってすべて支払ってくださったという神のみことば(聖書)の教義を受け入れることによって罪が赦されて、救われるのです。
 イエス・キリストの十字架による救いの確信は、感情から来るものではなく、聖書の事実と歴史的事実に基づくものなのです。
 3つ目は、聖霊による保証です。
13節には、『約束の聖霊をもって証印を押されました。』続いて14節には、『聖霊は私たちが御国に受け継ぐことの保証であられます。』と書かれています。では証印と保証という言葉について考えて見ましょう。
 まず聖霊の証印です。この言葉は、マタイ27章66節では封印、ヨハネ6章27節では認証と訳されています。この証印を押されるということについて、パウロは2つの大きな考えを持っていたように思われるのです。
 1つは、所有権に関するもので、もう1つは保証に関するものです。
 まず①所有権についてですが、主イエス様は『わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものはわたしを知っています。』(ヨハネ10章14節)
 私たちは神様を信じていても、羊のように迷いやすい者です。道を間違えてとんでもないところに行ってしまったりして辛い経験をするかも知れません。
 しかし、主は私の牧者です。主は私たちを見分け、導き、守ってくださいます。それは主を信じる私たちには聖霊様の刻印(証印)が押されているからです。
 私たちの信仰の確信は、たとえ罪を犯しやすい者、不信仰に陥りやすい者であっても、決して見放さず、離れず捨てることなく、永遠にわたしのものだと言ってくださる神様のうちに見出せるものであります。
 次に②保証ということばについて見ましょう。 
この保証とは、私たちをわたし(神様ご自身)のものであるという認証であります。
 それは所有権を主張されるだけでなく、それらを特別なもの、あるいは大切なものとして保護してくださり、あらゆる侵害から守ってくださるという絶対的な保証であります。
 この保証についてビーリーグラハムは、「今世紀の初頭に、インドで1人の英国人宣教師が亡くなりました。それまでの隣人が家に侵入して、彼の所有物を運び出し始めました。英国領事がこの知らせを受け、宣教師館の扉にカギがなかったので、そこに紙を貼って、英国国家の封印をしました。略奪者たちは、この封印を破る勇気はなかったのです。それは封印の背後には、当時の世界一強国という英国国家の絶対的な保証があったからです。」と説教しました。
 私たちの救いは、天地万物を造られた絶対的な神様によって保証されているのです。
 『わたしは、彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることなく、まただれもわたしの手から彼らを奪い去るよう泣ことはありません。わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。』
ヨハネ10章28、29節)
 3つ目の最後は14節の③保証ということばについてみましょう。
 証印という言葉の関連で保証という言葉についてみましたが、ここでの保証という本来の意味は、手づけ金(約束手形)、証拠金という意味があります。
 たとえば、マイホームを買う時に、手づけ金(契約金)を支払った段階では、まだその家の中には住んではいけないのですが、やがて必ず近いうちに、その家を自分の家にして住むことが出来るのです。
 同様に信仰によって、内なる聖霊様がともにいてくださるという約束は、今は天国を見ることはできませんが、やがて天国において素晴らしい神様の祝福にあずかるという確かな保証なのです。
 手づけ金を支払った者には、その家を購入する権利を持っているのです。  
 イエス・キリストを信じた者には聖霊様(手づけ金)が内住してくださっている事実は、天国(マイホーム)に行くことの出来る確かな保証になります。
 神のことばである聖書の約束、キリストの十字架という歴史的事実、聖霊様の保証(刻印)が信仰における確信の土台なのです。
 そしてそれらの3つの客観的事実を信じることによって、私たちの心に平安と喜びという4つ目の客観的事実である心の変化が起こるのです。
 私たちは信仰の確信を共にしっかりと握って、心から神の栄光をほめたたえる者となりましょう!