『神様を知る』エペソ1章15ー19節 2014年3月23日(日)

 『神様を知る』 エペソ1章15-19節
           2014年3月23日(日)
 信仰を持って時々感じることですが、私たちクリスチャンが信じている神様は本当に素晴らしいお方であるにもかかわらず、どうして私たちの国において信じる人が極めて少ないのかという現実への憂いであります。
しかし、このことにおいて誤解してはいけないことがあるのです。それは、神様を知る方法が少ないために、いわゆる天地万物を造られた神様を知ることが難しいのではないということです。それは神様を知るためにはどうしても一つの道を通る必要があるからです。
その一つの道とは、聖書に記されている神様を信じる(受け入れる)ことなのです。つまりいかなる人であっても神様を知るためには、まず聖書に書かれている神様を信じることによって、神様とはどのようなお方であるかを少しずつ認識できるようになるということであります。
ですから、多くの日本人が天地万物を造られた全能の神様を知らないのは、たとえ日本独自の宗教事情があるとしても、神様を知るチャンスが少ないからではないのです。
それは、聖書に啓示されている神様を信じたくない、あるいは信じられない、あるいは聖書の啓示されている神様について全く聞いていないという現実があるからではないかと考えられるのです。
 さらに神様を本当に知るということにおいても2つの知り方があるのです。一つは、聖書を学んで聖書に記されている神について知る(知識)ということと、もう一つは聖書を通して神様についてある程度知り、そして信じた結果、神様についてより深く知っていくという2つの知り方があります。
 けさの聖書箇所は、すでに信仰を持ったクリスチャンに向けて書かれたものであります。
それは、クリスチャンはもっともっと深く神様を知って欲しいという願いを持って、パウロはこの手紙を書いたと思われます。
とはいえ神様が私たちのすべてを知っておられるほどに、私たちは神様を完全に知ることは不可能です。もしそうなら漠然としか神様を知ることができないということではないかと反論されるかも知れません。しかし私たちは、神様のすべて知ることはできませんが、聖書を通して、神様がおられることと、その神様がどのようなお方(神の形や風貌ではなく<神は霊・神の本質=神の愛、憐れみ、義について)であるかを知ることができるのです。
さてけさは15−19節から、より深く神様を知るとはどういうことなのかを見て行きましょう。
パウロは1−14節において、イエス・キリストによる贖罪(身代わりによる罪の赦し)への感謝を表わし、それを受けて15節でこういうわけでと続くのです。そして教会の兄弟姉妹たちの信仰とその信仰から出る愛を知って感謝を表わしているのです。
しかしそのこと(感謝する)が手紙を書いた大きな目的ではないのです。それはこのエペソ書全体を読むなら分かってくるのです。前述したように、パウロがこの手紙を書いた目的を端的に言うなら、『エペソ教会の信者の陥っている誤りに気づかせ、正しい真理のうえに立たせることでした。』
そのために、パウロはまず、私たちの信じている神様とはどのようなお方であるのかをよく知るようにと勧めているのです。
それが17−19節であります。そして20−23節は、偉大な神様によって建てられている教会について語っているのです(次回に学びます)。
まず17節を見ます。パウロは、神様を知るためには、天のお父様から知恵と啓示の御霊が与えられるようにと勧めています。この知恵と啓示の御霊は神様を知るために必要不可欠なものであります。 
ではこの知恵と啓示の御霊とは何かを考えて見ましょう。
かつて私が無神論者だと言いつつ、神社に行ってお祈りをしたというのは知恵のない行為であると知ったのは、まことの神様を信じたときであります。それはイエス・キリストを私の救い主として信じた時に、私の心の中にお入りくださった聖霊の働きによったのです。
それは私自身が開眼したわけではなく、『人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊ですそして、主の御霊のあるところには自由があります。』(コリント第23章16節)さらに『聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話しておいたすべてのことを思い起こさせてくださいます。』(ヨハネ14章26節)と書かれているように聖霊様の働きによったのです。
聖霊によって与えられる知恵と啓示によってこそ、神ではないものを神とする偶像崇拝から守られ、まことの教えか、あるいは偽りの教えなのかを見分ける(自己吟味)ことができるようになるのです。
私が無心論者であったときに、一人のクリスチャンが私に聖書のことを話してくれた時に、こっそりと紀伊国屋書店に行って聖書を買いました。家に帰り生まれてはじめて聖書を開いて読んではみたものの皆目分からないという状況でした。 
それ以来、私がクリスチャンになるまでその聖書を開くことはありませんでした。聖書は毎年世界のベストセラーであります。多くの人たちが聖書を買われているのですが、もし神様を信じないままで聖書を手にされておられるなら、きっと私のような経験(分からない)をされているのではないかと思うのです。
『聖書はすべて、神の霊感による.....』(第二テモテ3章16節)ものです。ですからこの聖書を理解(霊的な)するためには、神様からの知恵と御霊の働きが必要なのです。
 ということで、パウロはエペソ教会内において、間違った教えに惑わされているクリスチャンたちに、自分たちが信じている神様とはどのようなお方であるのかを知るために、知恵と啓示の御霊が栄光の父から与えられるようにと祈り願っているのが17節です。
 続いて18節では、心の目がはっきりと見えるようになって、神様を信じている者に与えられる望みや富がどれだけすばらしいものであるかを知ることができるようにと祈り願っているのです。
「心の目」とは新約聖書ではここだけに出てくる表現であり、単に心情を意味するのではなく、知・情・意の領域を含むものであります。この所の注解(私なりの注釈もあり)を見ますと、「現在は失望と悲観の時代である。人々は、物事の否定面・暗黒面を取り上げて、ますますやみの世界の中に入って行くのです。しかしキリスト者は、だれにもまして、偽の平安はもちろん、一見、進歩的に見えるが実は自己満足に過ぎない偽りの平安を暴き、時代の罪深さを直視し、また直言する者でなければならない。しかし、そのような世に対して失望落胆することなく、神の召しによって与えられる希望と、クリスチャンが受け継ぐ栄光の富に心の目を注ぐべきであります。」と記されています。
 神様に召された者は、心の目(聖霊によって開かれた心)でこの世界と国を見て、この社会を見極め、人を見つめ、自分を取り巻く課題や問題を見据えて行くということが大切であります。
 それによって、本当に大切なものとは何かを知り、真に求めなければならないものは何かを見つけることができるのです。それはまさに神様が私たちの信仰によって付与される天来の賜物なのです。 
 ということで18節においてパウロは、エペソのクリスチャンたちが心の目が開かれて、地上に目を注ぎすぎないで、天にあるすばらしいものを求めるクリスチャンであるようにと祈り願っているのではないでしょうか。
 最後は19節であります。この箇所でパウロは17節において神様の存在を知らしめ、18節において神様の下さる望みがどれだけ素晴らしいものであるかを実現(具現化)してくださる神様の力の偉大さを語っているのです。
 私たちの信仰は絵に描いた餅のような抽象的なものではなく、実際的で、現実的で、真実なものであります。
 たとえば、神様の愛はいかにして示されたのでしょうか。神様は私たちを愛しているよと言葉だけでなく、どのような愛であるかを実際に示されたのです。それが神の御子キリストによる十字架の死よる罪のあがないであります。
 神様の愛は十字架による辱めと恐ろしい苦難を耐えてくださったキリストによって明らかにされたのです(ローマ5章8節)。
『私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実を持って愛そうではありませんか。』第一ヨハネ3章18節)と勧められているのです。
 もう一度19節を見ますと、神の全能の力と働き(神の偉大な力にある強大な能力)、信じる者に働く(エネルゲイア)神のすぐれた力(ドミュナス)。この力はやがてダイナマイトということばになったドミュナスという言葉が使われており、そしてこの働きはのちにエネルギーとなったエネルゲイアという言葉が使われているのです。
 このように、パウロは神様の偉大なる力とその素晴らしい働きを最大限に表現するために、これらの言葉を用いたのは明らかであります。
 私たちは今一度、信じている神様がいかに素晴らしいお方であるかを確認してみてはいかがでしょうか。
 祈ってもなかなか答えられないということで、神様への信頼が揺らいでしまう。あるいは自分自身の信仰に力強さを感じないといった状況の中で悶々と信仰生活を送っているという現状があるかもしれません。
 たしかに、私たちには神様の偉大な力や働きを妨げる、あるいは神様を深く知る理解力や知恵を低下させる罪があり、そして罪の力から来る肉の弱さもあります。しかも自分の力や思いでは、この罪の力には歯が立たないのです。しかし、私たちがより深く神様を知るために、イエス・キリストは神様をより深く知るための妨げとなっている罪の力から解放してくださったのです。
 さらに、イエス・キリストを信じるすべの人に内住しておられる聖霊様の働きによって、より深く神について知ることができるのです。
12節 『私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊をあなたがたに与えてくださいますように』 神を深く知るほど、信仰はより深められる。