2014年4月27日(日)『教会とは』エペソ1章20ー23節 

 「教会とは」 2014.4/27
       エペソ1章20−23節 
 私たちの教会がプレハブだったころのことです。次の日曜日礼拝に来たいのですがという電話を受けるのですが、日曜日当日その方がなかなか教会にお見えにならないということがありました。
 結果的にはその方は礼拝に遅れて来られたのです。その方が言われるには、実は目の前の教会を通り過ぎてしまいましたということでした。
 実はそのようなケースが数回あったことを記憶に残っているのです。その理由は言うまでもないことです。多くの方は教会というのはこういう建物というイメージを持っておられるからです。
 皆さんが想像されるのはステンドグラス風の教会のようです。
 その頃もうひとつの経験をしました。それは、教会の前を子どもたちが通り過ぎていくときに、おいこれ教会やで、小さい教会やなという声を耳にしました。それを聞いて別に腹も立たなかったのですが、教会の皆さんは、いずれは新しい教会が欲しいという思いがどんどんつのってきて1984年にこの会堂が与えられたのです。
さて今お話した教会とは見える教会ついてであります。なるほど今日の時代は見栄えも大切のようです。しかしけさお話しする教会とは、目には見えない教会についてであります。要するに、教会には見える教会と見えない教会があるということです。
1章の22,23節に書かれている教会とは言うまでもなく目には見えない教会についてパウロが語っています。そこでパウロは教会とはキリストのからだであると説明しているのです。
では教会はキリストのからだであるとはどう意味があるのかをご一緒に見て行きましょう。
まずキリストについて学ぶ必要があります。キリストとはどのようなお方であるかを20,21節で書かれているのですが、私たちのキリストに対するイメージとはどのようなものでしょうか。
 そのご生涯からは、謙遜で、優しく、愛なるお方で、いつくしみ深く、そして忍耐深いお方であるというイメージを持つ人が多いのではなかと思います。
 しかしパウロがキリストは教会のからだであるという説明におけるキリストについての紹介は実に偉大なるお方として、あるいは大いなる権威者として描かれているのです。
 まず20節では、御子なるキリストは、全能の父なる神様の力を受けられているということです。キリストは十字架の死から三日目に墓からよみがえられたという出来事は、全能の父なる神様の力によって実現したのです。そこにはイエス・キリストの父なる神様への全き信頼の姿を見ることができるのです。
 ですから、教会がキリストのからだということにおいては、目に見える教会がどのようなものであるかよりも、その教会がいかに神様に信頼しているのかが問われるのです。
 つまり教会に集いイエス・キリストを信じている一人ひとりが、どれだけ神様に信頼して教会に仕えているのかということであります。
 教会においては人間関係も大切にすべきです。しかし教会はお互いの信頼関係以上に、まず神への信頼がその教会の精神的な土台となっていることが重要ではないかと思います。
 さもなければ、小さなつまずき(問題)によって、教会に不信感を抱いて教会から離れたり、あるいは信仰を失ってしまうという悲しい出来事が起こるということもあるからです。単純に言えば人を見ないで主を見ましょうということです。
次に、キリストは父なる神様の右の座に着座されたということと教会はキリストのからだであるということにおいてのつながりとは何でしょうか。
ローマ書8章34節『罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。』と言っているように、イエス・キリストは教会のために絶えずとりなしの祈りをしてくださっているということであります。
教会に祈りが途絶えるなら教会はいのちを失うことでしょう。毎週の礼拝の祝福のために。礼拝のために奉仕をされる方々のために祈りが必要です。あるいは礼拝後の交わりが祝福されるための祈りも大切です。そしてお互いのためのとりなしの祈りも不可欠です。
そしてみことばが約束していることは、イエス・キリストはいつもすべての主の教会のために祈ってくださっているということです。
祈りの中で教会は前進して行くのです。たとえいろいろな問題を抱えていたとしても、祈られているなら心配はいらないのです。神様はすべてのことを働かせて益としてくださるからです。それは聖書の約束です(ローマ書8章28節)。
キリストが神の右の座に着座されて教会のためにとりなしをされているゆえに教会は決して揺らぐことはないと信じて参りましょう。
次は22節です。父なる神様は、全ての者がキリストに従うべきことを定められたのです。それは、父なる神様がキリストを教会のかしらとされたからです。 
教会の頂点に人の名が記されることはないのです。いや記されてはいけないのです。もちろん目に見える教会には教会の責任者や代表する人の名は必要であります。
おそらくクリスチャンでない人は、牧師がその教会のかしら、あるいは管理者、責任者であると思っておられるはずです。ですから牧師さんの言うことは絶対的なものと思っておられるかもしれません。あるいは牧師さんの言うことは絶対服従と考えられている人も中にはおられるかも分かりません。
確かに今日の社会は、あるいは国民は、あるいは世界はより強いリーダーを求めている時代なのかも知れません。しかし教会のリーダーはイエス・キリストであることをしっかりと心に留めなければなりません。
教会はキリストのからだであるということにおいて三つ目の意味することは、それは教会はキリストに従うということです。
そしてキリストに従うとは教会は神様のみことばの教えに忠実に従うということです。もし神のみことばから離れてしまうなら、その教会はいのちを失い、人々の魂の救いのために役に立たないどころか、むしろ人々をイエス・キリストの救いから妨げの石を置いてしまうようになるのです。
エホバの証人統一教会モルモン教といった異端がそうであります。異端の最たる特徴は神のみことばを曲解することであり、集会のかしらを教祖とすることにあるのです。
ですから主に喜ばれる教会とは、聖書をこよなく愛する群れであります。愛するとは日々みことばに聞く生活であります。そして聞くだけでなく、みことばに従う生活です。
そのようなクリスチャンたちが集まっている教会は、いつもみことばに耳を傾けて、みことばに従った教会形成がなされていくはずです。
ただし週に一度の礼拝のみで、みことばの養いを求めるところには無理があるのです。いや勘違いがあると思われるのです。
確かに牧師が礼拝で語るメッセージによって信徒の魂が養われることは大切なことです。しかし牧師、伝道者であれ異口同音に、一回のメッセージで一週の間その人の魂が養われ続けるというのはほぼ不可能であると言われています。
つまり日曜日に聖書はどこに置いているのかと探し当てなければない人ほど一回の礼拝メッセージで養われたいと思う傾向があると思われるのです。
日々みことばの教えに渇く人は日々みことばを開かなければならないと思うのではないでしょうか。
人のことはどうこう言う資格は私にはないのです。私が神学生でN教会で奉仕をしているときに,牧師のメッセージ中によく居眠りをしていました。確かに勉強に追われて眠いこともあったのですが、それは周りの教会のかたがたにはいい証にはならなかったと今更ながら申し訳なく思っているのです。
しかし弁解のようですが、魂は終日神学校においてのみことばの学びや、個人的なデボーションによって養われていたのではないかと思うのです。
もちろん毎日のデボーションが礼拝の代替にはなりません。礼拝の中心はメッセージのようでもそうではないのです。三位一体の神様があがめられなければなりません。賛美されるべきです。
ヨハネ4章24節『神は霊ですから、霊とまことをもって礼拝しなければなりません。』
あまりにも受身的な礼拝は主に喜ばれないと思われるのです。先ほどのみことばのように、神様は私たちに能動的な礼拝を求めておられるのではないでしょうか。 
教会はキリストのからだです。ですからキリストが父なる神様に全き信頼を置かれたように、私たちもキリストに信頼して教会に仕えて行きましょう。そして教会は祈りの火を消さないようにしましょう。そのためには一人ひとりの小さな祈りの火がいつも燃えていなければなりません。そして教会は神のみことばを愛し、聞き従う群れによって形成されて行くのです。