『神の恵みによる救い』エペソ2章1ー7節 2014年5月4日(日)第1聖日礼拝

『恵みによる救い』
エペソ2章1−7節 2014.5/4
 奈良県の浄化センターという所で働いていた時のことです(28歳)。上司がある電気の配線を見て、「これは死んでるか」という会話を耳にしました。もちろん、それはこの線は電気が通ってないという意味であります。電線だけでは触っても電気ショックは起こりませんが、ひとたび電気が通りますと触ったら危険です。 
 本来物質には命はありませんが、仕事上において、この線は電気が通っているのか、あるいは通っていないのかと言うよりも、生きている、あるいは死んでいるという言葉を使うほうが聞きやすく、分りやすく、そして危険が伴う仕事ゆえに、危険回避のためにも適切な言い方だと思います。
 生きている私たちにとっては、死んでいるのかあるいは生きているのかという言葉は、非常にインパクトを与えるということをうまく活用した事例ではないかと思います。
 確かに死という言葉はインパクト(影響・衝撃・印象)を与えるものです。死は闇、死は恐ろしいもの、死は苦しみ、死は無であり、死はすべての終わりといった暗いイメージを持つ人が多いはずです。
 しかし聖書は死については、漠然とではなく、明白に教えているのです。
 たとえば、ヘブル書9章27節では『そして、人間には一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。』と書かれています。 
 この世に生まれた限り必ず死ぬということを否定する人はだれもいないでしょう。人が一度死ぬという死とは、言うまでもなく肉体の死を意味しており、その肉体は朽ちて行き、やがて土に帰るのです。
 そして、聖書が言うように、死後の世界があるということについては、同意される人はおられるかと思います。
 しかし死後にさばきが定まっているということに対しては戸惑いを覚える人もおられるはずです。
 さらに、ローマ書6章23節で『罪から来る報酬は死です。』と語っているのですが、これは人間の死は罪から来ているということを教えているのです。 
 しかも、この死には2つの意味があります。1つは先ほど言いました肉体の死であります。もう1つは魂の死であります。なぜそのように言えるのかは、ローマ書6章23節の後半のみことばにあります。『しかし、神の下さる賜物は、私たちの主イエス・キリストにある永遠のいのちです。』
 この神の下さる永遠のいのちとは、死んでも永遠の天国につながるいのちです。
 では永遠のいのちを受けない場合のいのちはどうなるのでしょうか。この聖書は永遠の滅びに至ると教えているのです。『永遠の滅びの刑罰を受けるのです。』(第2テサロニケ1章9節)
 さて、以上の説明は2章2節の『あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって』の「死んでいた」という意味を理解していただくためであります。
 つまり肉体的には生きているのですが、罪過(ギパラプトーマ:踏み外して落ちる、誤った一歩。罪を犯した結果、外に現われた悪行を言う)と罪(ギハマルティヤ:それる、的外れ 。神を認めず、神に反逆する態度を言う)によってその魂は死後、神による永遠の刑罰を免れないということにおいて、たとえ肉体は生きていても、その魂は死んでいるという意味であります。
 それを聖書では「霊的な死」と言っているのです。そして、「霊的な死」の状態にある人の生き方について説明しているのが2節、3節であります。特に2節は特殊な表現であります。
 パウロが目に見えない世界をあたかも見ているかのように表現している背景には、当時のユダヤ教思想の影響は否めないのです。
 注解書によると、「サタンが空中のすみかとして、そこから地上の人間に誘惑や攻撃の手を下すと想像していた。地上は人間の住処、そして中間の空中(第1の天)はサタンの住処、天上(第2の天)は天使の住処と考えられていた。」当然、第3の天は神が存在する所と考えていたようです。
 当時のユダヤ人たちの想像思想とはいえ、2節において、サタンを空中の権威を持つ支配者と呼んでいるように、今日もなおサタンは空中に君臨していることは確かなことであります。
 彼らの目的は何でしょうか。彼らは人間の幸せを望みません。不幸になることを望んでいるのです。
 そして、彼らは人間が神様を求めることを阻止します。何よりも神様を信じないように妨害をするのです。
 主イエス様が言われたように彼らは初めから罪を犯しているのです(第一ヨハネ3章8節)。  
 しかも罪に陥れようとして、私たちに誘惑を仕掛けるのです。『身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。固く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさ。』(第1ペテロ5章8、9節)とペテロは勧めているのです。
 まことの神様を知らないまま生きるというのは、悪い霊の働きの影響をより多く受けることは免れないのです。
 しかも影響を受けるだけでなく、気づかないうちに悪い霊に従って歩んでいるということがあるのです。
 今日ではカルト宗教をよく見受けるのです。どう見ても正しくないことを、自分たちは間違っていないと主張し、実行するのです。
 それらは教祖たち(あるいは指導者たち)によって洗脳されることが多いのですが、その教祖たちも、目には見えない悪い霊の強い影響を受けているのです。
 そして3節でパウロは、すでに神を信じている私たちもまた、かつては神様に従わない人たちの中にあって(自分も含めて)、欲望に対しては無力であり、欲望に支配されて生きていた者であったと証ししているのです。
 この世において、いかに生きようと自分の自由であると主張する人もおられるはずです。
 自分の欲望の赴くままに生きることがどうして悪いのか。人間というのはそういうものだと、自分の生き方にとやかく言われたくないと思う人も少なくないはずです。イエス様を信じる前の私もまたそのような者であったのです。
 しかし、人が生きることにおいて、何の責任も問われないというのはあるうるのでしょうか。
 もしそうなら、この世に法律はいらないのです。しかし、もし自分の生き方が法律に背いているなら法律によって裁かれるのです。
 それは世の中の道徳秩序を保って人々を悪から守るためなのです。ですから、この社会においても責任ある生き方が求められるのです。
 なおのこと神様の前にいかに生きるかは当然心しなければならないはずです。
 法律に背いたなら、法律に従って刑罰を受けなければなりません。
 もし神様の意に反する生き方をするなら、神様のさばきを免れることはできないのです。
 3節では、神の御怒りを受けると書かれているのです。それは、この世において受ける神の怒りだけでなく、死後における神のさばきについても言及されているのです(参照:第2テサロニケ1章8、9節)。
 次に4、5節を見ていきますが、1−3節においてパウロは、私たち人間は、神様から離れて生きている存在であり、それは神様に対して罪を犯している生き方であり、さばきを受けなければならないという非常に厳しい状況に置かれているということを認識させることによって、4、5節の神様の恵みによる救済論をより深く理解することが可能となるのです。
 たとえば、自分の体が重い病気にかかっていることを知らないで、どうしてより良い治療を医者に求めるでしょうか。
 同様に私たち人間は、生まれながらにして罪を持った存在であり、その罪によって神の御怒りは免れないということを深く認識してこそ、神様のあわれみを請い、そして神様の救いを求めるのではないでしょうか。
 そこでパウロは神の救いについて言及するのです。ではなぜ神は罪ある私たちを救おうとされたのでしょうか。
 それはまず第1に神は愛なるお方だからです。その愛ゆえに、ひとり子イエス・キリストを十字架につけていのちを捨ててまで、私たちを救おうとされたのです。
 私たちが受けるべき罪の刑罰をキリストが代わりに十字架の上で受けてくださったと聖書(第1ヨハネ4章10節)は教えているのです。
 第2は、神はあわれみ深いお方だからです。もしこれらの神性のひとつでも足りないなら、私たちの救いは永遠になかったことでしょう。
 このように、ただ神の恵みによるすばらしい救いを受け取るために、私たちがなすべきことは信仰によって、神の言葉を受け取ることです!
 『すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることできず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないのゆえに、価なしに義と認められるのです。』 (ローマ書3章23節)