『神の救いとは』エペソ2章8ー10節 2014年5月18日(日)

  「神の救いとは」      2014.5/18
               エペソ2章8−10節 
 私が初めて教会に行ったのは23歳の時でした。それは決して自分から進んで行った訳ではありませんでした。
 当時は共産主義者でしたから、まさに嫌々ながらでした。最初は映画会、次はクリスマス会、3回目は私を教会に誘ってくれた方の受洗式でした。映画会も、クリスマス会も、私にとっては全く面白くなく、退屈なものでした。
 極めつけは、受洗式の時でした。その教会の牧師が私に向かって、岸本さんは救われていますか?という語りかけでした。私は、そのことばを聞いて戸惑うというよりも、この牧師は何言ってるんやと上から目線で偉そうに言うなと思いました。
 未信者にいきなり救われていますかと言われてもその意味が分るはずがありません。
 私にしてみれば、人の憐れみを必要としないし、人の助けを受けないといけない状況でもないという理解でした。
 とはいえ、牧師が語った「救われていますか」という言葉がなぜかその後も私の心にとどまりました。
 ところが、それからわずか3年後にその言葉の意味を理解する時が来たのです。それは、私が神様の存在を信じた時であり、イエス・キリストを私の救い主と信じた時でした。
 けさはイエス・キリストの救いとはどういうものであるかをお話しします。
 お向かいのYさんのお話ですが(本人はすっかり忘れておられます)、戦時中は名古屋にある軍需工場で働いておられたのですが、名古屋大空襲のときは、たまたま休暇中で工場からは離れた寮におられたために戦火から守られたのです。その後故郷の岡山の軍需工場に移られた時も大きな空襲があったのですが、その時は日曜日で実家におられて戦火から守られたようです。
 Yさんは「私は2度も命拾いしました。そういう運命だったんでしょうなあ。」と言っておられました。
 ちなみに、三年前に天に召されたH兄は、期せずして同じ時期に名古屋の軍需工場で、大空襲に遭われて、爆弾を受けて大けがをされたのです。生涯に渡って背負われた脳の障害は、その時に受けた爆弾の衝撃による後遺症ですと妹さんがよく言われていました。
 さて、H兄は59歳の時にイエス・キリストを救い主として信じられて、84歳の時に神様がおられる天の御国に凱旋されたのです。
 実はこの二人のお話のなかには、2つの救いがあります。1つはYさんのよう2度も空襲から免れたという命拾いであります。命が救われたという救いであります。他にも大きな病気から回復した。瀕死の状況から助けられた。危機一髪で助かったという救いです。
 もうひとつの救いとは、H兄のように、戦火は免れることはできずに大けがをされたのですが、イエス・キリストを信じておられたゆえに、死なれた後に永遠の滅びから免れて天国に行かれたという魂の救いであります。
 前者の救いは非常に分りやすく、中にはそういう経験をされたという方もおられることでしょう(私の体験:台風直後の波荒い海で、岸に戻れず、持っていた浮き輪が邪魔と思って手離す。しかしそれは泳ぎ苦手な私にとっては自殺行為。ところがしばらくして浮き輪が戻り必死で掴まり、慌てず浮いていると自然と遠い岸辺に到着)。
 もちろんこれらの救いは有り難いものであり感謝すべきものであります。
 ところが2つ目の救いである自分の魂が救われているのかどうかについては、死後でないと確認できないのです。つまり死んでみて初めて、死後自分がどうなるかが分るということであります。
 実はこの聖書は、死について、あるいは人は死後どうなるかが具体的に書かれているのです。まず聖書は死についてどう説明しているのでしょうか。
 ローマ書5章12節で、『そういうわけで、ちょうどひとりの人(アダム)によって罪が世界に入り、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がった。』
 また6章23節には、『罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主イエス・キリストにある永遠のいのちです。』と書かれています。
 この2つの節から言えることは、死はアダムが神様に背いた結果(罪の行為)もたらされたものであるということです。
 さらに、後者の聖書の言葉から言えることは、罪から来る死とキリストにある永遠のいのちという対比があります。
 この対比の意味するところは、死がすべての終わりではなく、死後において永遠のいのちが存在するように、永遠の死という状態があるということであります。
 ところが、日本人の死についての考え方には、人は死んだらおしまいと思っている人。あるいは死んだら人はみな仏様になると信じている人。中には死んでみないと分らないという人たちもおられます。あるいは何らかの宗教による死後の教えを信じているという人たちもおられことでしょう。まさに日本人の死生観はまちまちなのです。
 しかしこれらの説明のいずれも、死んでみないと真実は分らないという共通点があるのです。というのは、死後の世界を覗いて再びこの世界に戻って来たと言う人の証言を聞いたことがないからです。
 ところが聖書には、実に信じ難いことですが、天の御国から人間世界に来られて、そしてこの世界で人々とともに生活をし、やがて死を経験され、しかも死んで三日後に死からよみがえられたという人物について紹介しているのです。その方こそ主イエス・キリストであります。
 そしてマタイ1章21節には『この方こそ(イエス)、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。』
 あるいは第1テモテ1章15節には『「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。』と書かれています。
 つまりイエス・キリストは人間を罪から救うためにこの世界に来られたということであります。
 というのは、さきほど見ましたように、聖書は罪から来る報酬とは、肉体の死だけでなく、魂が永遠の死に至るという2つの死について言及していることを話しましたが、私たちが罪の結果もたらす永遠の死から免れるためには、まず罪の問題を解決する必要があるのです。
 さて、ここでいう罪とは、行為に現れた罪を指すだけでなく、心の中に潜む内的な罪も含むのです。例えば人を憎む。中傷する。妬むなども聖書は罪であると教えているのです。さらには、情欲を抱いて異性を見ることにおいてすでに姦淫の罪を犯すものであると主イエスが言われたのです。
 では神の祝福を失ってしまう原因である罪から救われるためにはどうすればいいのでしょうか。
 先ほどのローマ書3章23節に続く24節のみことばは非常に大切であります。『すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。』というみことばです。
 ではイエス・キリストによる贖いとは何でしょうか。それは、身代わりという意味であります。つまりイエス・キリストが私たちの罪の身代わりとなられて、罪によって受ける神からの刑罰を代わりに十字架の上で受けて下さったという意味です。
 その結果、前の節(22節)にキリストを信じる信仰によってと書かれているように、イエス・キリストを信じる者は罪赦されて、しかも義と認められるのです。
 それらのことは、エペソ2章8節にも書かれているように、信仰による救いであり、それはただ神の恵みによるのであり、それは神様からの一方的な(賜物)プレゼントなのです。
 このように罪を赦された結果、その魂(人)は永遠の死から免れて、天国に行くことができるのです。
 冒頭で話しましたが、かつて嫌々ながら行った教会にて牧師に『岸本さん、あなたは救われていますか?』と言われたことばは私にとって非常に重要なことばであったのです。
 それは、永遠の救いにあずかるか、あるいは永遠に神様から離されてさばきを受けるかの分水嶺でもあったのです。
  先週の水曜日にお向かいのYさん宅に行きました。先生、スイカ食べますかと言われて、私はスイカが大の好物で、即有り難うございますと返事しました。ところが、ちょっと用事があって牧師館に行き、すぐに戻りましたが、なぜかスイカを待てども出ませんでした。一寸の時間の変化で忘れられたようです。
 その後Yさんのために祈りました。昨年イエス様を罪からの救い主として信じられましたが、最近はどんどんと物事を忘れていかれる中で、祈りの後アーメンとはっきり言われたのです。イエス様のことは覚えておられるのです。
 2度の奇跡的な命拾いだけでなく、素直にイエス様を信じられて、魂が救われて、天国の備えをなされていることに、本当に良かったと感謝しています。
 イエス様のおことばを聞きましょう!
『まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。』
 (ヨハネ5章24節)