24回食事会を開きました。 5月20日(日)

今回はいつもより少なめの10人の参加者でした。
 
 ゆっくりと時間を取ってお互いに話ができて感謝。

 3人の姉妹方で料理を用意してくださいました。

 食後に奨励がありました。

  

  

  

  

 
 わたしのところに来なさい!2014年5月20日(火)食事会マタイ11章28節

『人の一生は重荷を負いて遠き道を行くがごとし、・・・・・・・・・・急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。心に望み起こらば困窮したる時を思いだすべし。堪忍は無事長久の基、怒りを敵とおもえ。勝つことばかり知りて、負くることを知らざば、害その身にいたる。おのれを責めて人を責むるな。及ばざるは過ぎたるより勝れり-徳川家康』


 家康は幼少時に母と別れ父に死なれ幼くして松平宗家(徳川家)の当主としての重責を荷いました。少年時代は隣国の織田や今川といった強国で人質として苦労して育ち、成人してからも決してその人生は急がず慌てずに織田信長の同盟者として戦い、秀吉の政権に参加しその政権の筆頭大老として秀吉を支え続けました。そしてやがて自分の手に天下が掴み取れるチャンスが来ることを自然にまかせ無理をせずに待ちました。そして秀吉の死後、そのチャンスが巡ってきて関が原の戦いに勝利し政権を手に入れました。
 
家康は先人(信玄・信長・秀吉)の長所を取り入れ先人の失敗や自身の失敗を反省し、そのことを徳川政権に取り入れて約250年の長期安定政権を樹立しました。
その家康の人生を『人の一生は…』の遺訓に込めました。 
 
ただ、家康の遺訓とされるこの言葉は家康本人のいった言葉ではないという説もあるようです。(ヤフー知恵袋より)
 徳川家康も人生という重荷を背負って生涯を生き抜いた一人なのです。天下を手にしたとはいえ、幕府安泰のためには心労絶えない日々を送ったはずです。
 確かに、人はこの世に生まれて何の苦労もなく、憂いもなく、過ごせましたと言える人は皆無でしょう!確かに家康の遺訓のように人は何らかの重荷を背負って生きているのです。時にはその重荷を背負い切れないという辛いときもあると思います。
 口で絵と詩を描かれている星野富弘さんは、体育の教師でした。体操のクラブの時間に事故によって頸髄損傷で首から下が麻痺となりました。自暴自棄の長い入院生活が続く中で、大学の先輩のクリスチャン(米谷さん)が見舞い来て聖書を置いて帰りました。星野さんは回りから弱い人間と思われたくなかったのでその聖書をしまいこんでいたのです。その後、病院のクリスチャンを通して牧師が訪問するようになりました。そのような中で星野さんはイエス・キリストのことばに捉えられたのです。
 『私は自分がどこに向かって行くのか、何に向かって行けば良いのか分からなかった。その不安が、全く知らない人のいる泌尿器科に移って来てさらにい大きくなり、押しつぶされそうになりながら、私は心のよりどころを求めていた。そんな私の耳元を時々、風のようにささやいていく言葉があった。「労する者、重荷を負う者、我に来れ」それは、郷里の家の裏の墓地に立っていた白い十字架にかかれてあった言葉だった。不思議なほど覚えていたその言葉を、恐る恐る開いた聖書の中に見つけたとき、私がまだ健康で何も知らないで飛び回っていたころからすでに、私にこの言葉を与えてくれていた、神様の心を知ったような気がした。』 「愛、深き淵より」 P.116より抜粋
 
 マタイ1章28節〜30節
『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。』
 このイエス・キリストの言葉は、星野富弘さんの人生を変え、生涯の心の拠り所となったのです。
 どうしてキリストの言葉が多くの人々の人生を変え、そして心を打つのでしょうか?
 では、そのヒントを漢字の中から見ましょう。
 来→來 人+人 十字架+人  十 十 十
 休→人 + 十字架+人
 
 イエス・キリストは、神の国から人のお姿をとってこの世界に来られ、人間にとって最大の重荷であり、呪いであり、死をもたらし、神のさばきのもとである罪を背負って十字架で身代わりの死をとげられたのです。しかし、三日目に墓よりよみがえられ、数百人の前に現れ、40日後、人々が見ている前で天に昇られたのです。
『キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見出されませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、ただしくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪から離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督である方のもとに帰ったのです。』 第一ペテロ2章22—25節

 さらにイエス・キリストは、この世界にもう一度おいでになることを約束されているのです。
『しかり、わたしはすぐに来る。』 黙示録22章20節