『神の家族の一員(1)』ー神との平和ー  エペソ2章11ー17節  2014年6月22日(日)

『神の家族の一員』 —神との平和— 
  エペソ2章11−17節2014.6/22
 今日本の政治の一番の関心事は集団的自衛権ではないかと思います。そもそもこのような問題が起こって来た背景には、特に尖閣諸島の中国との領土問題にも関係があるのでしょうか。
 隣の土地の境界線であっても,双方激しいやり取りをすることがあるのです。
 私が小さい時でしたが、普段は寡黙な父もお隣との境界線のことでは、父は激しい口調でやり合っていたことを今もはっきりと覚えています。
 まして国家間の領土問題となると対処を間違えれば戦争になりかねません。宇宙から地球を見れば国境はないのです。しかし軍備を強固にして国境を守らなければならないというのが世界の実情です。  
 口では平和平和と叫ばれているのですが、本当に平和ってこの世界にあるのでしょうか。
 さてけさの聖書箇所には平和という言葉が4回使われています。とはいえ、旧約聖書においては国と国との熾烈な戦い、多くの血が流されるという戦争の記録が数多く記されています。
 そのような悲惨な史実を見るときに、聖書は平和について教えており、あるいは聖書は人々の平和を願っていると言うには、あまりにも矛盾があるのではと特にノンクリスチャンから叱責を受けるかも知れません。
 しかし私は敢えて言わなければならないことは、聖書は平和の大切さを教えているという事実があるのです。旧約聖書には74回,新約聖書には46回平和という言葉が使われています。
 では聖書が教える平和とはどのようなものでしょうか。
 それは、まず神と人間との平和についてであります。
 さて、パウロは神様を知らない人は、神様と敵対関係にあると言うのです。つまり神と人間とは平和な関係ではないと言っているのです。
『あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行いの中にあった』(コロサイ1章21節)
 このみことばによるなら、人は生まれながらにして神様と敵対関係にあったのです。その理由は、人間の行ないが悪かったためです。しかも生まれながらにして罪を持ち、そして罪を行なう人間とは神様は平和関係を持つことが出来ないのです。
 しかしコロサイ1章21節の後半〜22節で『今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自身と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。』と書かれています。
 これらのみことばは、神様と敵対関係であった状態を、神自らによって平和な関係にしてくださったということを説明しているのです。
 それは神と人間が敵対関係となっている要因である罪の問題を解決するために、父なる神は御子イエスをこの世に送られ、御子イエスが十字架で私たちの罪の身代わりとなられたことによって、人類の罪をあがなってくださり、それによって神との和解の道が開かれたのです。
 よって、私たちは神と平和な関係を取り戻すことが出来るようになったのです。それだけでなく、きよい者として神様の前に立つことが出来るようになったというのがコロサイ1章21節後半と22節であります。
 さて、けさの聖書箇所も神と敵対関係にあった人間がいかにして神との平和を持つことが出来るようになったのかを説明している所であります。
 まず11、12節を見ますと、ユダヤ人と異邦人とが区別されているのです。
 では何が区別されているのでしょうか。それは、明らかにユダヤ人には神の救いの希望があるが、異邦人には救いの希望がないというものであります。
 ユダヤ人から見れば、異邦人は軽蔑されるべき存在であったのです。
 しかもユダヤ人から見れば異邦人は、神の契約のしるしのない無割礼者であり、汚れた者であるということで、彼らとは決して交わりを持つことはなかったのです。
 またユダヤ人はメシヤを待望していたが、異邦人にとってはメシヤ思想すら無縁であった。ユダヤ人は聖なる民として数えられ、異邦人は汚れた者として神の民としては加えられなかった。
 ユダヤ人の歴史は唯一神の歴史そのものであり、そこには神が備えられた未来という希望があったが、異邦人には進むべき将来への道筋もなかったということが、11、12節に書かれている内容の詳細説明であります。
 確かにキリストの来臨以前は、異邦人の救済論においては希望の持てない状況だったのです。
 ところでユダヤ人でもあったパウロがこのように言った理由は、異邦人を差別することでも、まして異邦人を蔑む(さげすむ)ためではなく、異邦人にとってはどうにも出来ないのろわれた運命を変えてくださり、敵対関係にあった神様との和解の道を備えられたのがイエス・キリストであるということを、もう一度異邦人のクリスチャンに知らせるためでありました。それが13−17節のみことばであります。
 では13節を見ましょう。冒頭の「しかし、以前は........今では」という言葉は、イエス様を信じる前は心が満たされず、空しく生きていた者が、イエス様を信じた今、心は平安に満ち神様によって生かされていることに感謝しますというクリスチャンの証しのスタイルなのです。
 そのような証しが出来るのはイエス・キリストが十字架で流された尊い血潮によるのです。この「キリストの血によって」とはどういう意味であるかを詳しく説明しているのが14節−17節です。
 旧約聖書の中に「和解のいけにえ」という言葉が出て来ますが、これは神様がユダヤの民が犯した罪のために神様との関係が悪くなっている状態を、動物が犠牲(いけにえ)となって神様にささげられることによって、神様はそれを見てユダヤの民と和解されるというものであります。
 同様にイエス・キリストは十字架でご自身のいのちを犠牲にされたことによって、父なる神様はイエス・キリストを信じる者と和解されるのです。
 ではいかなる理由でイエス・キリストによる犠牲によって神様との和解が可能となったのでしょうかを見て行きましょう。
 まず神と人間の間には大きな2つの壁が立ちはだかっていたのです。
 ひとつは律法を完全に守ることによってのみ神様の救いにあずかれるという壁。もうひとつは、罪を犯した者は神様からのさばきを逃れることが出来ないという壁であります。
 ところが、この2つの壁をクリヤー(通過)してくださったのがイエス・キリストであります。
 まずイエス・キリストは律法を完全に守られた(成就)のです(ローマ書10章4節)。次にイエス・キリストは罪を犯されたことがないゆえに、神様は罪汚れのない完全ないけにえ(イエス・キリスト)を良しとされたのです(へブル7章27節)。
 イエス・キリストこそ神様の救いにあずかるための条件を唯一満たす方なのです。ですからイエス・キリスト以外に救いの道はないのです。
 諸国同士が交わす平和条約が破られないなら、世界の平和は維持できます。何よりも私たちの心に平和を持ち続けるなら、隣人と仲良く生きることが出来るのではないでしょうか。
 しかし、時としてその平和を乱すのが私たちの心の中にある罪(自己中心や自我)なのです。そして、その罪こそが神様との関係をはなはだ悪くしているのです。
 しかも、その罪によって人は死後、永遠に神様から離されてしまうのです。
 これほど恐ろしいことが他にあるでしょうか。どうかイエス・キリストを信じられて罪の呪いによる永遠の滅びから解放されて、一日も早く神の家族の一員となられますように!