「神の家族の一員(Ⅱ)」−神の家族とは−  エペソ2章19−22節  2014年6/29(日)

「神の家族の一員(Ⅱ)」−神の家族とは−
        エペソ2章19−22節
         14年6/29(日)
 人にはそれぞれの生い立ちがありますが、私の両親は私が2歳頃に離婚しました。そして少しややこしい話しですが、私は一人の女性と岸本家に養子縁組として迎えられたのです。私を養子にしたと同時に父はその女性と結婚するという入籍でした。
 それから4歳ぐらいの時に、ある夜父はその女性を家から追い出したのです。その夜は私にとっては心が引き裂かれる辛くて悲しい夜になりました。それはその人を本当の母と思っていたからです。後で分かったことは、その人は、夜な夜な大阪に出て行っては繁華街で夜遊びをしていたようです。しかも幼い私を連れてです。今でも私は、きれいなミラーボールがあるダンスホールにいたことを覚えているのです。
 それから6歳ごろに今の母が嫁いで来たのです。そのような中に育ったものですから、弟が生まれると僕は本当の子どもではないと卑屈な気持ちになったり、えこひいきされていると悲観的に考えたり、時には本当の両親だったらどんなにか幸せだっただろうと思ったものでした。
 しかし大人になるにつれ、どれだけ両親は私を大切にしてくれたかが分かって来たのです。
 父はイエス様を信じて他界しました。そして母は今では私のことも分からない状態ですが、父母ともに心から感謝しているのです。
 家族が本当に幸せであるのというのは、必ずしも血縁関係の有無だけでは測れないものであると思います。
 さて、けさの聖書箇所には全世界的な家族、あるいは全人類的な家族について書かれているのです。それは神の家族です。
 実はクリスチャンはこの地上においては2つの家族を持っているのです。  
 1つは人間(肉的)家族、もう1つは霊的家族です。一つ目の家族は言うまでもなく、戸籍上においての血縁関係を持つ家族です。
 そして、けさ聖書から学ぶのがもう1つの家族である霊的家族であります。
 さて、霊的家族とは神の家族のことであります。
 まず神の家族の特徴について見て行きましょう。
 第一は全く新しい親子関係です。もちろん親とは神様であります。クリスチャンはすべて同じ霊的父親(神様)を持っているのです。
 次に霊のお父様が語られたことば、すなわち聖書を通してコミユニケーションをします。そしてクリスチャンは、すなわち神の子どもたちは聖書を通して養育されるのです。
 ですから神の家族の一員であるクリスチャンは聖書に耳を傾け、聖書を読んで生きて行くのです。
 とはいえ決してロボットのような存在ではなく、自由意志が尊重されていて、神様と親しく交わることができるというすばらしい人格が与えられているのです。そして、神様の許容範囲において自由が与えられているのです。
 もちろん、それは何をしてもいいという自由ではなく、神様が喜ばれることに心に留め、神様のみ旨を大切にし、神のみことばに聞き従うなかで享受するものです。
 なぜなら、そうすることがクリスチャンにとって、つまり神の子どもとしての幸いがあり、また祝福となるからです。
 さて、これまでは神様との関係について触れて来ましたが、次は横の関係つまり神様の子ども間(クリスチャン同士)における関係にについて見て行きましょう。
 第一は、互いに愛し合う関係であります。それは、霊のお父様がそのようでありなさいと言われているからです(エペソ3章17節、6章23節)。
 特に子なるイエス・キリスト様が命じられているのが『わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。』(ヨハネ15章12節)という戒めであります。
 第2は、赦し合う関係です。イエス様も赦しを大切にするように命じられましたが、エペソ書の著者パウロ自身も、4章32節で『お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。』と勧めているのです。
 愛し合うことと赦し合うことが人間関係において平和をもたらす、あるいは平和を保つ最も良い手段であり方法なのです。
 特にクリスチャンは、この2つの大切な戒めを、身をもって理解しているのです。 
 それはイエス・キリストの贖罪に見ることができるのです。つまり罪なきお方が、罪ある私たちの身代わりとなられて私たちが受けるべきさばきを、十字架の上で受けてくださったのです。
 神の御子キリストは、罪によって神の国に入れない私たちを、キリストの赦しという恵みと信仰によって神の国に行けるようにしてくださったのです。
 神の愛と赦しという行為によって、人類に罪からの救いと天国への道が備えられたのです。クリスチャンは、神に愛され、赦されているという立場を自覚して、人との関わりを大切にしたいものであります。
 パウロもガラテヤ書で勧めています。『善を行なうことに飽いては行けません。失望せずにいれば、時期が来て刈り取ることになります。ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族に対して善を行ないましょう。』(ガラテヤ書6章9、10節)
 パウロが信仰の家族を特別扱いにした理由は10節にあるのです。というのは、その家族の一員はみな同じ御霊を受け、天のお父様を同じ父とする神の子どもたちは、ある面においては、血縁関係以上に親密な関係になる時もあるからです。
 それはクリスチャンが迫害されたときには、生死を共にするほどの結束力があるからです。もちろん聖書は血縁の家族を大切にしなさいと勧めていることも忘れては行けないのです。『もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。』(テモテ第一5章8節)
 最後に、神の家族が住む神の家について見て行きましょう。
 クリスチャンはやがて天国を永遠の住まいとするのですが、その住まいはもはや朽ちることなく、神の栄光に輝くところでありますが、20−22節に書かれている建物とは言うまでもなく地上の教会であります。
 言うなら教会は天国に住むまでの一時的な住まいと言えるのです。その住まいの特徴は、土台がしっかりしているということです。
 パウロはその土台とは使徒預言者であり、礎石はイエス・キリストであると論じているのです。使徒預言者とは、教会は神の福音を聞いて、それを信じた人々が集まることによって教会が生まれたのです。
 それは、その福音宣教に携わった使徒預言者の働きがなければ教会は生まれなかったのです。使徒預言者という土台がなければ教会は建たないのです。
 今日も同様です。神のみことばが語られなければ救われる人も起こされず、新たなる教会は生まれることはないのです。つまり教会の土台とは福音に対する信仰告白なのです。
 教会は、見える建物がどのようなものであるかよりも、まずクリスチャン一人一人の信仰告白がどのようなものであるかが問われるのです。
 目に見える家という建物は本来もろいものであることを、3年前の東北での大津波で実証されました。あるいは最近頻発している竜巻によって無惨にも破壊された建物の様を見て自然の力の脅威を見せつけられているのです。
 もはや私たちは家庭の土台とは見えないものによることに気づくべきなのです。立派なお家に住めば立派な人が育つとは限りません。建物ではなく家に住む人の人間性がどうなのかがもっと重要なことであり、第一に問われることなのです。
 と言っても私たち人間にも限界があります。人間は不確定な存在であり、絶対的な存在ではありません。ペテロは、『人はみな草のようで、その栄えは、みな花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。』(第一ペテロ1章24、25節)と言っているのです。
 パウロは、20節で、使徒預言者という土台をさらに支えるのが、イエス・キリストという隅のかしら石(礎石)であると語っているのです。
 今日の建物で言うなら、コンクリートで固めた基礎が礎石(イエス・キリスト)であり、その基礎に建物をつなぐ部分が使徒預言者という土台と理解出来るのではないでしょうか。
 続いて21、22節で、その土台を基として、組み合わされたつまり私たちクリスチャンのことであります。そのクリスチャン一人一人が成長して行くことによって、しっかりとした教会が建てられるということであります。その目的は、さらに福音宣教が拡大されるためであり、神の御名があがめられるためであります。それは神の家族の一員であるクリスチャン一人一人に託された光栄な使命でもあるのです。