「聖霊を悲しませてはいけません」 エペソ4章30―31節 14/8/24

聖霊を悲しませてはいけません」
エペソ4章30―31節 14/8/24
 聖霊様は、三位一体の第三位格とされています。よって聖霊様は父なる神、そして子なるキリスト様と同様に神様であられます。しかもイエス様を信じた者の心の中にお入りくださっているのです。
 それは内住の神様として、私たちの心の中にいてくださるのです(第二テモテ1章14節)。そして、そのお方の働きとは、私たちと共にいてくださって、神のみことばを理解するための助けとなってくださるのです。
 また、罪についても明らかに示してくださるのです(ヨハネ14章26節)。ですから、クリスチャンになって罪意識を以前よりも持つようになったというのには、聖霊様の働きによるというのは明らかなことであります。
 また聖霊は知恵を与えてくれます(ルカ12章12節)。あるいは励ましてくれます(使徒9章31節)。聖霊によって苦難の中にあっても望みをいだくことができるのです。聖霊は苦難の中において喜びを与えてくれます(第一テサロニケ1章6節)。御霊は弱い私たちを助けてくれます(ローマ書8章26節)。
 何よりも聖霊によらなければだれもイエスを主と告白することはできないのです(第一コリント12章3節)。
 聖霊は賜物を付与してくださるのです(へブル2章4節)。聖霊は私たちの祈りを導いてくれます。そして聖霊に導かれた人々によってこの聖書が書かれたのです(第二ペテロ1章21節)。御霊によって神のみこころが分かります(第1コリント2章11節)。
 実に聖霊様の働きは多岐にわたっております。もし聖霊様の助けがなければ、私たちは信仰を持ち続けることは非常に困難になるでしょう。あるいは信仰の確信が揺らぐことでしょう。
 神様は私たちの弱さを知っておられたゆえに聖霊様を私たちの心に送ってくださったのです。
 聖霊様の別の呼び名は助け主(パラクレトス:弁護者、慰むる者、傍らにいる)です。本当にすばらしいお方であることをいつも意識して日々の生活を送っていきましょう。
 聖霊様とイエス様は同様の神様なのです。主よ主よと助けを求めることは良いことです。でも時に聖霊様に語りかけてはどうでしょうか。神様を信じる者の心の中におられる聖霊様に無関心であるなら、聖霊様はどう思われるのでしょうか。
 決して聖霊様を無視しているわけではありませんが、もし聖霊様に無関心であるなら聖霊様は怒られるでしょうか。あるいは勝手にしなさいと切り捨てられるでしょうか。否です。
 30節に書かれていることは事実なのです。聖霊様は悲しまれるのです。弱いお方だからではなく、孤独を感じられるからではなく、愛し合う関係が保てなくなって来たからです。しっかりと結び合う関係が弱くなってきたからです。それは私たちを慕い愛するゆえに伴う悲しみなのです。
 親は子供を愛するものです。もし子供が親に無関心なら親は悲しいのです。無関心の度が過ぎると無視に近い状況になるのです。 
 もし私たちが無関心の原因が、聖霊様を知る知識の少なさから来るなら、聖霊様との関係はすぐに改善できるはずです。
 というのはけさ聖霊様について学んでいることは非常に役立つからです。みことばを熱心に学ぶなら、聖霊について無関心ではいられないはずです。異性を心から愛するようになると、その人についてもっともっと多くのことを知りたくなるというのは、ごく自然なことはではないでしょうか。
 信じる者の心の中におられるということがどれだけ素晴らしいことであるかを、自分のことばで表現してみてはどうでしょうか。
 私たちの礼拝は、使徒信条にあるように三位一体である父・子・聖霊への心からの礼拝です。
 聖霊様が御子に劣るものでもなく、そして偉大なる父なる神様に劣るお方ではないのです。父と子と聖霊は同質であって、同じ人格を持ちつつ、異なる働きをなされるのです。
 私たちは、三位一体の神様を頭では理解することはできませんが、受け入れることは出来るのです。神様はそのような信仰を喜ばれるのです。
 さて聖霊様について多くのことを学びました。確かに聖霊様は全能のお方であることは間違いのないことです。そして聖霊様は超越されたお方であります。
 であるなら、聖霊様が私たちの行動や意思をコントロールされて悲しまれることのないように出来ないのでしょうか。確かに聖霊様にとって不可能なことはないのですが、唯一出来ないことがあるのです。それは人の意思をコントロールすることです。
 聖霊様も私たちの意志を尊重されます。私たちの意志を無視して強制的に導かれるお方ではないのということを知る必要があります。
 旧約聖書に登場しますダビデは、祭司サムエルによって油注がれ、主の霊がその日以来ダビデの上に下りました。そしてダビデは御霊の人としてイスラエルの二番目の王となりました。
 しかし、ある時に、ダビデは夫を持つバテシェバに心を奪われ、夫のウリヤを激戦地に送り戦死させてバテシェバを自分の妻としたのです(第2サムエル11章)。
 ではどうして助けぬ主であられる聖霊様は、彼が罪を犯さないように守ることができなかったのでしょうか。もちろん聖霊様がダビデを見過ごされたのではないのです。
 聖霊様はダビデが罪を犯さないようにいつでも助けることが出来るお方です。しかし聖霊様は、ダビデの意思に反して、無理やりに従わせることはできないのです。
 つまりダビデの肉欲の思いは悲しまれますが、ダビデの意思は尊重されたのです。しかしながら、聖霊様を悲しませたダビデは罪の刈り取りを免れることは出来ませんでした。
 ダビデの子ども達は王国の分裂、兄弟同士の血の争いという悲痛な罪の刈り取りが待ち受けていたのです。
 それでも聖霊様はダビデを離れられることなく、見捨てられることはなかったのです。「ほむべきかな神。神は私の祈りを退けず、御恵みを私から取り去られなかった。」(詩篇66章20節)と証ししているのです。
 では聖霊様はどのようなときに悲しまれるのでしょうか。
1.神のみことばに従わない生活をするとき。
2.聖霊様の思いに反する生活をするとき。
3.聖霊様の臨在を無視したり、無関心であるときです。
 クリスチャンは聖霊様が内住されているから、罪の力から完全に守られるのではないのです。みことばに従う時、主の御心に応じる時にあらゆる罪から守られるのです。
 そこでパウロは、聖霊様が悲しまれるものを31節で挙げているのです。
無慈悲:和解さえ拒絶する苦い思い
憤り:苦々しい思いから爆発的な怒り
怒り:持続的な怒り
叫び:敵意に満ちた激情
そしり:悪意を持って他人を非難する。ののしる。悪口を言う
 パウロは、このようなものから聖霊様が守られるとは言っていないのです。これらの悪を捨て去りなさい(払いのけなさい)と勧めているのです。
自分の意思で聖霊様が悲しまれるものを払いのけなさいと勧めているのです。
クリスチャンが罪から離れようとする思いの中に聖霊様が手助けをしてくださるのです。私たちがみことばに聞き、従おうと意思を働かせる時に、聖霊様が応援してくださるのです。
「風はその思いのままに吹き」とは、聖霊は己が好むところに吹かれるという意味です。聖霊様はみことばに従う者を好まれるのです。罪から離れようとする者を好まれるのです。
 聖霊に満たされたいと願う者を好まれるのです。そして聖霊に満たされている者は罪の力に打ち勝つことが出来るのです。
けさ学んだことです。
聖霊様は信じる者の心に内住されていることをいつも意識しましょう。
聖霊様はみことばに従う者を好まれます。
聖霊様は自分の意思で罪から離れる者を必ず守られます。
聖霊に満たされることは、祝福される信仰生活を送るために不可欠なものです。
最後にみことばを見ましょう。
「酒によって(泥酔)はいけません。そこには放蕩がるからです。むしろ聖霊に満たされなさい。」(エペソ5章18節)
「あなたがたのからだは、あなたがたの内に住まわれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなた方は、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」
   (第一コリント6章19,20節)