「自分のことだけでなく」  エペソ4章28-29節   14年8月17日 

   「自分のことだけでなく」
 エペソ4章28-29節   14年8月17日 
 先日、ある番組で24歳の日本人の青年(永井亮宇 ながい・りょうさん)が単身で、東ティモールのコーヒー農園で、現地の人たちと協力(NPO)して美味しいコーヒー作りのために献身的に働いているところを見ました。電気もない、水道もない、もちろんガスもない実に貧しい国で日本人の青年が活躍している姿に感心したのですが、かつて彼は不良少年で両親を困らせていたようですが、このような彼の生き方に強い影響を与えたのがお母さんの『将来は人の役に立つ人間になるように』という一言でした。
 ピリピ2章3、4節では『何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。』と書かれているのですが、人のために我が身をささげている人の番組を見るたびに、神のみことばに教えられている自分はどうなのかと思わされるのです。
 確かに人のために自己犠牲を払うことは素晴らしいことです。しかし実際にそのようにできる人はごく限られた人ではないでしょうか。 
 ところが28、29節を見ますと、ごく身近な普段の生活において、人のために生きるとは何かを学ぶことができるのです。
 悲しいことですが、初代の教会においてキリストを信じて新しい人を着たにもかかわらず(24節)、盗みや悪い言葉によって人をつまずかせているクリスチャンがいたようであります。そこで、パウロは盗みをやめ、悪いことばをいっさい口から出さないように、むしろ自分のことだけでなく、人の益となるようにと勧めているのです。
 まず28節から教えられることは、
1、労して働くことは人の益となる。
 この盗みとはどのようなものでしょうか。この盗むというのは、強盗と泥棒の中間ぐらいの盗みという原語が使われています。 
 強盗と泥棒については、犯罪の程度に大きな違いがあるのですが、その間と言われても理解に苦しみます。
 聖書注解によれば、『新しい人を着て、なおかつ盗みをしている者がいたのだろうか。これは、社会の法に触れるような本格的な泥棒ではないが、不当な利息を課しているとか、老いた親の世話を教会に押し付けるなど(第一テモテ5章16節)、神の目から見ると盗みを働いていると見られる人を指していると解釈するのが良い。』と書いています。
 たとえ強盗と泥棒の中間あたりの盗みとはいえ、悪いことをしていることには変わりがないのです。しかし、法律やルールを根拠にして盗んでいるとは言いがたい行為ではないかと思われます
 とはいえ、その行為が世の法律に触れないとしても、神様の目から見れば一目瞭然、盗みに価するのです。
 皆さんでマラキ書3章8−9節を見ましょう。ここは神様のものを盗んでいるという聞き捨てならないみことばではありますが。
 よくよく考えてみれば、神様を知らない時の私は、太陽や空気や水といった自然の恩恵に感謝することはほとんどしなかたように思います。それらは当たり前のものでありました。
 しかし天地万物を創造された神様を知って、当たり前と思っているものに感謝できるようになり、神様が造られた自然の恩恵を通して神様をほめたたえる者とされたのです。
 このみことばから、神様の下さっている恵みを忘れている、あるいは、知らないでいるというのは、それは神様のものを盗んでいるといった究極とも言える盗みがあるということも心に留めておきたいものです。
 いずれにせよ盗みは正しい所有手段ではないのです。盗んだ人の損害を顧みず、他の人を犠牲にしてまで、自分の欲望を満たそうとする極めて悪質で利己的な行為なのです。
 とにかく残念なことですが、当時の教会の中に不当な手段で、あるいは不正な方法で身近な人や回りの人に不利益をもたらし、自分の利益だけを求める者がいたのです。そのような者に対してパウロは、正当な労働につくことを戒めているのです。
 それは、働いて得たお金を有効に使うなら、盗みを働く必要がないのです。汗して働いて得たお金をさらに大きくすることもお金の活用方法ですが、パウロは、働いて得たものの中から、困っている人に施すようにと勧めています。
 労働の消極的な意義とは、人のものを盗んだりして人に迷惑をかけないためでありますが、労働の積極的な意義とは、困っている人に分け与えるためであるとパウロは労働の両面の意義について語っているのです。
 人を助けることは大切ですが、安易な助け方はむしろその人を駄目にすることもあるのです。パウロは怠惰な者には働くことを勧め、不正な手段で利を得ている者にも働くことを勧めているのです。援助も大切ですが助言も必要です。
 さらにパウロは、人の不正をあばくのではなく、また盗みを断罪するのではく、働くことによって自分のことだけでなく、他の人のことも顧みる者となるように指導しているのです。
 非難や断罪だけでは人を追いつめるだけです。しかし良いアドバイスは人を生かすのです。
 次に29節を見ましょう。29節から教えられることは、2、私たちのことばが人の益となるようにということです。
 25節の偽り。26節の怒り。27節の盗み。28節の悪いことば。これらはみな人間関係に関わるものです。
 なかでもことばは一番身近なものであり、また一番失敗しやすいものであります。
『私たちはみな、多くの点で失敗する者です。もしことばで失敗しない人がいたら、その人は体全体もりっぱに制御できる完全な人です。』(ヤコブ3章7、8節)
 これまでにことばで苦い経験をしたという人はおられるのではないでしょうか。
 私ごとですが、信仰もって間もない頃に、私が青年の姉妹たちに語った一言でつまずきまでは行かなかったのですが、一人の姉妹が嫌な気持ちになられたらしく、当時の牧師の口から注意を受けたのです。私自身はそれほど悪いことばを使ったとは思っていなかったのですが、その方には良くなかったようです。
 当時、クリスチャンになったとはいえ、まだまだ俗っぽいものが抜け切れない自分があったということに気づかされたのです。
 しかし、ことばが変えられるにはなお時間を要したのです。
 とはいえ、信仰を持って39年近くなった今でも、ことばは本当に難しいものと思っています。気づかないところで、私が口にしたことばで人を傷つけていたかも知れません。慎重に選んだことばでさえ、相手の方に不快な思いにさせたかも分かりません。
 ではここで言う悪いことばとはどのようなものでしょうか。原語のロゴス・サプロスとは、「悪しき」という意味だけでなく、「無価値な言葉」あるいは、「腐敗した言葉」などの意味があるのです(引用:今村好太郎氏著)。
 私が信仰持って間もないときに、何気なく口から出た言葉によって一人の姉妹が、クリスチャンが言う言葉ではないと思われたようですが、確かに教会に来るまでは、人の悪口をよく耳にし、下品な会話が弾む中に私もその中にいて、否定するのでもなく、その場から離れるのでもなく、話の流れの中に身を置いて、自分も話しの輪に入ることもありました。
 本来、何が良い言葉であり、何が悪い言葉であるかはたいていの人は聞き分けることができるはずです。しかし、身近な人の話の内容が、下品であるとか、冗談が過ぎていると感じたときに、どういう態度が取れるでしょうか。
 その場から離れる。あるいはその人に注意を促す。あるいは我慢してその場に居続けるのか。
 クリスチャン同士なら、注意を促すことは良いことです。しかし話している人がノンクリスチャンなら、忠告するのは難しいのです。かりに注意したとしても、快く受け止めてくれるというのは非常に難しいかと思われます(経験上)。そこで友を選ぶことをお勧めします。
 聖歌の614番の2節「友を選べこころして、いう言葉にも敬虔なれ、考え深く事をなし、真実込めて主に頼れ、日々祈り持て、主に請い(願い)まつれ、なが(あなた)力なる主の助けを」
 みことばは『鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる』(箴言27章17節)と書かれているのです。
 クリスチャンの口から出る良いことばが聞く人の心が豊かにされるなら、その人にとって神様を求めるチャンスとなるかも分かりません。
 あるいはクリスチャン同士の人間関係において、お互いのことばが、互いの徳を高め合うことによって共に成長していくというのはすばらしいことです。
 人に良いものを与えずして、自分に良いものを得ることはないのです。
 人の益のために良いものを提供するなら、やがて自分のところにも恵みが及んで来るのです。良い種を蒔いて良い収穫を!
 さて、私たちは、労働の対価は当然自分のものであると考えもやすいのです。しかし、けさの学びを通して、対価の一部は困っている人を助けるために積極的に用いるようにと教えられました。
 また自分の口から出ることばが、人を不快にさせたり、傷つけたりすることがないようにということを学びました。
 むしろことばが人の徳を高め、人に益をもたらすようにと教えられたのです。
 そのためには、人のために生きることを阻害する自己中心に向き合わなければいけないのです。
 ただみことばを聞くだけの者とならないように心がけたいものであります。