『神に愛されている者として』2014年9月7日(日)

「神に愛されている者として」
エペソ4章32―5章2節 14.9.7
 「衣食足りて礼節を知る」は中国の管子のことわざであります。その意味は、衣服と食物は、生活をするうえでの根本であるから、それらが満たされることによって心にもゆとりが出来、礼儀を知ることが出来るというものです。また「愛は憎しみの始まり」という管子のことわざも有名であります。
 このふたつのことわざについて少し考えて見ました。
 まず最初の「衣食足りて礼節を知る」のことわざは,今からおよそ2600年前のものです。あくまでも想像ですが、その当時中国において、衣食が十分足りているという人とはかなり身分の高い人であったはずです。それに比べて多くの人が貧しい生活を強いられて、まともな教育(学問だけでなく道徳教育も)を受けていたとは考えられないのです。当然そのような人々の中には、不道徳な行為もあり、礼儀知らずということもあったのではないでしょうか。何となく管子のことわざは庶民の立場や気持ちに立ったものではなかったのではないかと思うのです。
 もうひとつは、衣食が足りているにもかかわらず、この世には礼儀知らずで、何が誉であれ、何が恥ずかしいことかがわきまえられない人が結構いるのではないでしょうか。例をあげる必要もないかもしれませんが、例えば、社会的地位の高い人が、破廉恥なことをして逮捕されるという事件は後が経ちません。
 管子のことわざに水を差すようですが、ほかの例をあげますと、3年前の東北大震災の時に、福島第一バプテスト教会の佐藤彰牧師の証し(アメリカ国内)のなかで、三日四日食事が十分取れない中で、死んで行かれる人が後を絶たない中にあっても、店のガラスを割って強奪したり、人の物を盗んだりする人は誰一人もいませんでしたということを聞きました。
 おそらくその地域だけでなく、ほとんどの所で同じようなことであったようです。
 管子のことわざとは間逆であります。衣食の問題は人間にとっては死活問題です。たとえ衣食が足りないとしても、人は分別を見失わずに生きることができるならすばらしいことではないでしょうか。 
 阪神大震災や東北大震災の時に、非常に過酷な中にあっても日本人は秩序正しく、礼儀正しく、互いに親切心を忘れないように行動したことに、世界の人々は驚いたのです。
 そういう意味においては、まだまだ日本人は、32節の冒頭のことばである、「お互いに親切にし、心の優しい人となり」というパウロの勧めを実践している国民ではないかと思うのです。
 ここでの親切とはクレートスという原語で礼儀正しくあれという意味でありますが、仏教や儒教の精神が日本人の心の中に生きているのかも知れません。
 では続いてみことばを見ますと、「神がキリストにおいってあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」というパウロの勧めについてはどうでしょうか。
 もちろんこのみことばのキーワードは赦しです。
 実はキリスト教の教えでこの赦しということばが中核をなしていると言っても過言ではないと思うのです。
 当然キリスト教の教えの中心は愛ではないですかと言われる方がおられると思います。もちろんその通りです。神の愛はこの聖書の中心の教えです。しかし神の愛と赦しは表裏一体の関係にあるのです。
 日本人の一般的な傾向として、赦すか赦さないは自分の判断次第であり、それは、自分の権利であり、たとえ赦さないとしても誰からも咎められることはないという考えがあるのではないでしょうか。
 皆さんもご存知のように、日本人は忠臣蔵を非常に好んで見るのです。私も数え切れないぐらい見たのです。
 播磨赤穂藩の3代藩主浅野内匠頭(たくみのかみ)=ながのり)は今日で言えば陰湿ないじめによって、非常な辱めを受けたことを憤り、刀を抜いてはいけないところ(江戸城松の廊下)で刀を抜いてしまって即刻切腹。浅野の家老大石良雄を始めとする赤穂浪士47士は、浅野内匠頭の無念を果たすために、吉良義央(吉良上野)の命を奪うという復讐の話です。
 少なくとも当時の庶民にとっては美談となり、忠臣蔵の47士は英雄でもあったのです。この忠臣蔵の出来事によって、忌々しい敵への復讐は美談であるという文化が日本人の心に根付く要因になったのかも知れません。
 しかし聖書はどう言っているでしょうか。旧約には復讐を容認している所がたくさんあるのですが、新約では復讐は禁じているのです。
 ただし、ローマ書12章19節とへブル10章30節には復讐は神がなさること書かれているのです。さらに、聖書は復讐を禁じているだけでなく、イエス様は、マタイ5章44節で「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と教えられたのです。
 あるいはマタイ18章21節から35節では罪を犯した者に対して、何度までとは言わないで無制限に赦すようにと弟子たちに教えられたのです。
 主が話されたたとえの趣旨は、あなたも赦されたのだから赦しなさいということなのです。
 32節を見ましょう。「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」
 ところが旧約聖書の時代においては、イスラエルの民に対して悪事を働いた異教の民への復讐については、神ご自身が容認されていたのです。それは、唯一の神を信じ、その神を証しするという使命を持っていた民が滅びから守られるためであり、神の真実と正義が保たれなければならないからでは思われるのです。
 ところが、新約聖書の時代になると一転復讐の教えではなく、むしろ赦しなさいと命じられているのです。その訳は、キリストの十字架にあるのではないでしょうか。「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように」とはご承知のように、私たちの罪によって神から受ける刑罰を、キリストが私たちの身代わりとなられて、十字架の上で受けてくださったのです。
 その刑罰とは、悲痛な屈辱と、はかり知れない肉体の苦しみによる身代わりの死であります。このように父なる神は、罪のない神の御子イエスを十字架の死というさばきによって、私たちの罪は問わない(無条件の赦し)という救いの道を備えられたのです。
 罪ゆえに神に裁かれて当然の私たちが、キリストの恩恵(犠牲)によって私たちの罪が赦されるという恵みがもたらされたのです。
 そのような神の赦しを受けた者が人を赦すというのは、新約聖書の教えの中核であるというのは至極当然なことではないでしょうか。
 1節を見ましょう。「ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。」
 つまりこのみことばから、神様が罪ある者を赦された理由とは、神様が私たちを心から愛されているからということが分かるのです。ですからここでは、赦されたからというよりも、愛されているからこそ、神にならう者になるようにとパウロは積極的な勧めであると思われます。 
 ここで神にならう者とは、文脈から神が赦してくださったように、お互いに赦し合うことを実践することにあるのです。
 次に2節から学びますが、冒頭で「衣食足りて礼節を知る」と言うことわざについてコメントしたのですが、「愛は憎しみの始まり」ということわざについても少し考えて見ましょう。
 先ほど神の愛と赦しは表裏一体と言いました。しかし、管子のことわざによれば、私たち人間関係においては、愛と憎しみとは表裏一体であると言っているのです。
 見返りを求め過ぎる愛、支配的で独裁的な愛、盲目的な愛であればあるほど、それを失った時は、その愛は憎しみへと変わりやすいのです。
 そのような愛は、日常茶飯事の人間関係において見るものであり、自分自身も陥りやすいものであります。
 ところが、2節の「愛のうちに歩みなさい」と言われている愛は、神様の愛であるというのは言うまでもありません。アガペーです。先ほどの愛とはまったく正反対のものです。
 アガペーの愛とは、見返りを求めない犠牲的で無私の愛、支配的で独裁的でない普遍的な愛、感情や状況に左右されない不変的な愛であります。
 その愛はイエス・キリストのうちに見ることができるのです。神様はどれほど私たちを愛しておられるかを明らかにされたのが、身代わりによる十字架の死であります。それは罪人が赦されるための神へのなだめの供え物であり、ふさわしいいけにえ(犠牲)であります(参照:ローマ書5章8節、第一ヨハネ4章10節)。
 さて、パウロが2節で勧めている「愛のうちに歩みなさい。」とはどういう意味でしょうか。それはキリストの愛はどういうものであるかをいつも覚えて、また忘れずに、愛されていることを実感しながら、キリストにならって生きていくことなのです。
 管子のことわざは「衣食足りて、礼節を知る」ですが、聖書はどう教えているでしょうか。
 『満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることはできません。衣食があれば、それで満足すべきです。』第一テモテ6章6−8節
 あるいは「愛は憎しみの始まり」でしょうか。聖書はどう教えているでしょうか
「愛は多くの罪をおおうのです。」
 第一ペテロ4章8節
 長い歴史においての人間の知恵や経験から語り伝えられた処世訓は大切なものであり、それから学ぶことも多いと思います。
 聖書を学ぶ者にとって、それ以上に大切にしたいことは、口先だけでなく、行いによって証明されたイエスの愛に学び、教えられ、その愛に生きて行きましょう!