『賢く歩みなさい』  ーみことばが教える賢い生き方とはー エペソ5章15−21節 14年10/5

    『賢く歩みなさい』
 ーみことばが教える賢い生き方とはー
エペソ5章15−21節 14年10/5
 私は薬品会社で動物実験の仕事をしておりました。仕事の内容の一例として、その日に製造された薬をウサギに投薬して、ウサギのお尻に体温計を差し込んで体温の変化を調べることです。
 当時、体温計を固定するために、最初の頃は布状の鉛を使い、次に止血ゴムを使っていたのですが、両方共に一日中ゴムで縛っているために、血の循環が悪くなってしっぽが腐り、ウサギが次から次へと死んで行くという悪い環境でありました。
 いずれは殺されるウサギとはいえ、可哀想なものであります。そこで私は何か良い方法はないものかと考えました。そこで思いついたのがマジックテープでした。早速母に試作品を作ってもらい、試して見たのです。まず取り付けが楽で、しかも外しやすく、布ですからウサギの皮膚にもやさしく、そして安価です。それ以来しっぽが腐って死ぬことはなくなったのです。
 このように、何かいいアイデアを思いついて、それがうまく行った時にほめられたというのは嬉しいものでした。 
 ところが、当時の私生活と言えば人にほめられるには余りにもほど遠いものでした。
 仕事が終われば、労働者がもっと豊かになる国を目指して、思想活動や組合活動に明け暮れ、ヘビースモーカー、深酒、時には賭け事、連夜の度の過ぎた不規則な生活。その代償は胃の3分の2を失い、重要な役割を担う十二指腸も失ってしまうという有様でした。それは当時22歳のことでした。
 私は、たまたまかも知れないほんの少しいいアイデアがほめられて、自分は賢いのかなと錯覚していただけでなく、その生き方においても、誰が考えても賢い生き方ではないということを、それから4年後のイエス様を信じた26歳の時に、この聖書によって気づかされたのです。
 さて、パウロがここで言っている賢い人とは、あるいは賢くない人とはどういう意味でしょうか。
 結論から言いますと、前の3節から14節で語られているのです。
 賢い人とは、真理を見出し、まことの光を持っている人であり、賢くない人とは、真理を知らず闇に中にいる人のことです。
 このパウロの手紙は、当時の社会の退廃を非常に憂い、教会も悪い影響を受けるような状況のなかにあって、エペソにある教会のクリスチャンに書き送ったものです。
 クリスチャンとはいえ、この世の闇という影響を受けずに生きて行くというのは非常に難しいことなのです。
 ではそのような悪い環境の中にあって、その人の信仰の実態はどのようにして推し量れるのでしょうか。それはその人の歩みです。つまりどのような生き方をしているかによって明らかにされるのです。
 信仰のすばらしさというのは、その人の行いを通して明らかにされるものであります。ですから、神様を信じているとしても、その歩み(生き方)が賢いものであるかをよくよく注意するようにと、パウロはこのところで勧めているのです。
 まずパウロは16節です。
1.時を生かすようにと勧めています。ここでの機会とは、その下に続くことばで悪い時代と言っているように、時間的なものよりも、どのような時代であるのかといったクロノス(時間)ではなくカイノス(時・時代)の意味であります。
 当時は非常に悪い時代でありました。注解書によりますと、
「手紙が書かれた1、2年後には、皇帝ネロの気まぐれ(火事がいっている家の絵を書きたい)から、例のローマの大火が起こり、これがキリスト者の仕業にされて、多くのクリスチャンが虐殺され、それから4年ほど後にはパウロの殉教となる。やがてネロ自身も暗殺されて、ローマ帝国は内乱に揺れ、68年と69年の間には4人もの皇帝が乱立し、その間にユダヤ戦争が起こって、70年にはついにエルサレムが壊滅するに至る。ローマの獄中から、このような時のしるしを見てとったからこそ、パウロは今という時を大切にし、この好機を逃さないようにと勧めているのである。」
 今日の時代も、ローマ時代の混乱や退廃の状況に酷似しているのではないかと思われるのです。
 黙示録によれば、将来においてもっと深刻で恐ろしい患難時代が来るであろうと預言されているのですが、私たちは、今日の様々な出来事を通して、その前兆を見るような時代のなかに生きているのではないかと思わされるのです。
 そういう意味において、私は次のみことばに思い潜めるのです。
『神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。時が良きても、悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分の都合の良いことを言ってもらうために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。』
(第二テモテ4章1−4節)
 さらにそのあとに、テモテに対して伝道者としてしっかり働くようにと励ましているのです。
 ますます悪くなっていく時代において、私たちクリスチャンの使命とは何でしょうか。聖書が一貫して教えているのは福音宣教ではないでしょうか。
 パウロは宣教のために時を生かすようにと勧めているのです。
 次は17節です。
2.主のみこころは何かをよく悟るようにと勧めています。
 ここでのみこころとは、10節にあるように、主が喜ばれることとは何かということであります。
 そのことを知るためには愚かに(反意語:蛇のようにさとくあれ、また鳩のように素直であれ)ならないようにと勧めているのです。
 先ほども触れたように地上において、クリスチャンにとって主のみこころとは、究極的には福音宣教であります。
 事実、パウロはこの手紙の終わりにおいて、6章19、20節でパウロは、大胆に福音が語れるように祈って欲しいと書いているのです。
 もちろん主のみこころは福音宣教だけではないことを付け加えておきます。
 さて、主のみこころによる歩みと宣教との関係は非常に密接な関係があります。
 それは、神様を信じているクリスチャンが主に喜ばれる(みこころにかなう)生き方をしているということが、福音宣教において大きな効果がもたらされるということです。
 私たちの信仰の歩み方(信仰の証し)いかんによって、福音宣教の成果が左右されるというのは無視できない事実ではないでしょうか。
 次に18節から21節です。
3.クリスチャンの賢い生き方の基本は信仰生活にあるのです。
 まず18節において、飲酒のことに触れているのです。当時ギリシャにおいては、ぶどう酒は常習的なものであって、過ぎた飲酒によって様々な不道徳がなされていたようであります。場合によっては偶像崇拝を助長するようなお酒の宴もあったようです。
 パウロが酔って(ここでは泥酔の意味であります)はいけないと勧める一番の理由は放蕩があったからです。放蕩には救われがたいという意味があるようです。
 当時ユダヤの王であったヘロデが設けた酒宴において、娘に何でも欲しいものを言いなさいと言った結果、娘はバプテスマのヨハネの首を欲しいと言い出したのです。ヘロデ王は面子もあって引くに引けない状況となり、愚かにも、ヨハネの首をはねるように命じて、その首を娘に差出したのです。常軌を逸した酒宴による最悪の事例です。
 泥酔や度が過ぎた飲酒は体にも良くないのです。過ぎると理性が麻痺して、とんでもないことをしてしまうリスクがますます高くなり、賢い歩みをしょうとしてもできないのです。その結果は、主のみこころを損なう愚かな歩みとなるのです。
 かつて私のお酒仲間が、「この世の中、酒を飲まなければやりきれない」と言っていたのを思い出します。そして、もれなく私も同感でありました。嫌なこと、辛いこと、思うように行かない時、またストレスがたまるとあびるほどのお酒の助けが必要でした。
 しかしそのような人生から、祈りによって神に助けを求める人生へと変えてくださったのです。 
 かつて神戸神学院学長であられた今村好太郎先生は、次のように言っておられます。
「失望と困惑、煩悶(はんもん・色々と悩み苦しむ)と憤怒(憤りや怒り)の処置は、飲酒を持ってすべきではなく、祈って神の御霊を受け、信仰の友と語り合うことによって、上よりの知恵を示され、友の体験に聞き、互いに感謝を持って、祈りと賛美を持って神様に感謝することである。これが悩みに勝つ最上の道である。」

 最後に冒頭に引用しました賢い人と、賢くない人とは何かの結論をもう一度見ましょう。
 賢い人とは、真理を見出し、まことの光を持っている人であり、賢くない人とは、真理を知らず闇に中にいる人のことです。
 真理とまことの光はイエス・キリストによって明らかにされたのです。
 私たちの罪の身代わりとなられて十字架で死なれ、死からよみがえられた神の御子イエスを信じることによって、罪の弱さの中にある私たちが賢く生きることを可能としてくださったのです。
 『わたしは世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことなく、いのちの光を持つのです。』ヨハネ8章12節