『聖霊とクリスチャン』 —御霊に満たされなさいー エペソ5章19-21節  2014年10月12日(日)

聖霊とクリスチャン』 —御霊に満たされなさいー
エペソ5章19-21節  2014年10月12日(日)
 私が働いた時の初任給が確か2万3千円位だったと記憶しています。18歳の時です。それから1年半ほど経ってから、親戚の自動車屋から月賦でトヨタカローラを購入しました。当時の価格は中古で20万円でした。今で言えば120,130万円近い買い物でしょうか?
 さて、念願の自動車を手に入れて、ある日職場の人を乗せて、京都の宇治川に魚つりに行きました。ところが登り坂になると車が思うようにスピードが出ないのです。はじめは大人4人が乗っているからと思っていたのですが、あまりにも遅いので、ボンネットを開けてみると、4気筒の車でしたが、その内ひとつのプラグが外れていることに気づきました。そしてプラグを差し込んで走ってみると坂をぐいぐいと登って行ったのです。
 今日ではありえないトラブルです。当時はオーバーヒートのために、ボンネットを開けて休憩している車をよく見かけたものです。さて4気筒エンジンのうち1本のプラグが外れているとマイナス25%馬力ダウンです。もし2本なら半分の馬力ダウンとなるのです。つまりせっかく4気筒があるエンジンであっても、1本でも外れると本来の力を発揮できないのです。力を持っているのにその力を発揮していないということです。
 実は聖霊様とクリスチャンの関係も同じことが言えるのです。つまり信仰によって聖霊様が心に内住されたのですが、聖霊様のすばらしい力が発揮されていないという状態であります。 
 けさは聖霊様(御霊)クリスチャンとの関係についてみことばから学びましょう。
 エペソ1章13節において『またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊を持って証印を押されました。』と書かれています。
 これはキリストを信じた者には聖霊様がその人心の中に住まわれるという約束なのです。ですから、すべての信者は聖霊様を心の中に持っているのです。
 次にもうひとつのみことばを見ましょう。それはガラテヤ書6章1節の前半です。『兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心で、その人を正して上げなさい。』と書かれています。
 ではここでの御霊の人とはどのような人のことでしょうか。つまり御霊の内住と御霊の人とは同じ意味を持っているのか。あるいは違いがあるのかということであります。
 実は新約聖書の中では、区別されているようであります。御霊の内住、すなわち御霊を持っている人が必ずしも御霊の人とは限らないということであります。
 ガラテヤ5章16節を見ましょう。『御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。』
 このみことばは、御霊によって歩むなら、つまり御霊に満たされて歩むなら、欲望から身を守ることができるという勧めなのです。
 エペソ5章18節も同様です。御霊を持ちなさいではなく、御霊に満たされなさいと勧めているのです。
 これらから言えることは、御霊の人とは、御霊を持っている(内住)というだけでなく、御霊に満たされている人なのです。
 ある人は次のように思われるかも分かりません。「信仰によって、御霊が与えられ、神の子どもとされ、永遠のいのちを受けて天国に行けるだけでも十分ではないでしょうか。」と。
 確かに信仰によって天国の約束を頂いたことはすばらしいことです。しかし神様が信じる者すべてに御霊を与えられる目的は天国に行ける保証だけにあるのではないのです。
 たとえば、自動車の免許証を取ったとします。しかし事故を恐れて車を乗らないならば、ペーパードライバーになるのです。そうなるとせっかく免許を取ったのにドライブの楽しさを味わえないのです。運転に慣れていくことによって、上達してこそドライブの楽しみを体験できるのです。
 神の子どもであるという資格だけでは、クリスチャン生活の喜びを経験できないのです。信仰が成長することによって、クリスチャン生活の喜びを体験できるようになることを神様は願っておられるのです。
 このクリスチャンの成長ということにおいて、御霊に満たされるという経験は不可欠なのです。   
 つまりクリスチャン生活が祝福されるためには御霊に満たされることは必須条件であります。
 
 クリスチャンは御霊の助けが必要なのです。その理由とは、19節では礼拝と交わりが祝福されるためです。20節では神様に感謝するためです。21節ではキリストを恐れ尊び、互いに従うためです。
 まず19節で、礼拝と交わりの祝福について考えて見ましょう。礼拝と交わりの祝福を妨げるものとは何でしょうか。それは罪の力です。第一ヨハネ1章5-10節を見ましょう。
 ここでは、隠された罪は交わりの弊害となると教えているのです。もちろんその交わりの中でもたれる礼拝にも影響を与えることは言うまでもないのです。
 罪は様々な形態をとって私たちの交わりを壊します。兄姉たちにねたみを抱くことによって、あるいは兄姉たちの悪口や陰口を言うことによって、あるいは偽りがあるなら、相互の交わりや関係が損なわれるのです。
 当然そのような状況の中で持たれる礼拝では、神様を心からほめたたえることが難しくなるということが生じてくるのです。
 もちろん礼拝が祝福されるためにはアイデアや工夫も必要です。しかし目に見えないサンタや悪霊たちがひそかに持ち込む罪の種や、私たちの肉の内に働く罪の力に注意する必要があるのです。そのような状況において働かれるのが聖霊様なのです。
 というのは、ヨハネ16章8節には『その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。』と主は言われたのです。
 また16章13節では『真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導きます。』と教えているのです。これらの聖句から言えることは、聖霊に満たされることによって、礼拝、私たちの交わりの妨げとなる罪の力から守られるということであります。
 これまで聖霊に満たされる大切さをみことばから見て来たのですが、聖霊に満たされるためには、聖霊様のご性質を知る必要があるのです。それは、聖霊様はきよい心の内に満ちてくださるのです。
 ですから、私たちが聖霊様に満たされるためのひとつの方法とは、罪の告白と赦しであります。
 『もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』
第一ヨハネ1章9節
 罪の告白とゆるしによって、聖霊様は働きやすくなります。そして聖霊様の豊かな働きのなかで礼拝と交わりが祝福されていくのです。
 
 次に20節を見ましょう。神様に感謝するために聖霊様の助けが必要です。クリスチャン生活の特徴としてあげられるものの一つに神様への感謝があります。もちろん人への感謝も忘れてはいけません。
 なかには、自分ひとりの力で生きているという人がおられるかも知れません。しかし、それは少々高慢なことではないでしょうか。人とは互いに支え合って生きていくものです。そのような心がないと、人への感謝の気持ちを持つことはできないはずです。
 自分のことばかり考えていると、人への感謝の心は生まれないのです。物事がうまく行けば自分の功績や力と思い、反対に状況が悪くなってくると人のせいにし、不平や不満、つぶやきの思いが出てくるのです。
 そのような心で、人に感謝すること、まして神に感謝をするのは難しいのです。特に私が無神論者と自称していたときは、美しく壮大な自然を見て、すごいなと感動しても、感謝することはありませんでした。もっとも無神論者ですから感謝するべき対象がなかったのです。  
 しかし神様を信じてからは、どんなに小さなもの(こと)であっても、それらを造られた神様を賛美し、また感謝を言い表す者に変えて下さったのです。 『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって、神があなたがたにのぞんでおられることです。御霊を消してはなりません。』 第一テサロニケ5章16-19節
 人生の苦難や逆境において、なお感謝しなさいと神のことばは勧めているのです。まさに信仰者に内住する聖霊様がともにおられなければ、できないことではないでしょうか。
 もちろん、どのような時でも喜べる原動力は御霊の内にあるのです。もし神様を信じつつも、不平、不満、つぶやきが絶えることなく、感謝の足りない生活であるなら、御霊に満たされることによってそのような生活から改善されるはすです。そのためには、自己本位な生き方から、神に明け渡し、おゆだねするという信仰が求められるのです。
 御霊の働きを消しては(とどめては)、神から与えられる力を失い、心から、そしていつでも、どのようなときでも神様に感謝することが難しくなるのです。
 
 次に21節です。キリストを恐れ尊ぶために、あるいは神様に従うために、聖霊様の助けが必要なのです。
 まず神様に従順に従う人とは、キリストを恐れ尊ぶ人であります。そのキリストを主と告白させるのは聖霊によるのです。『聖霊によらなければ、だれもイエスを主と告白することはできません。』  第二コリント12章3節
 生まれながらの性質によっては、神様を深く知り、尊び恐れるということができないのです。私たちは、聖霊様を介してでなければ神様を正しく知り、正しく恐れ、神のことばである聖書を正しく理解するということができないのです。
 
 最後に、互い従うことと聖霊様とのかかわりについて考えましょう。
 まずこの従うとは、原語ではヒュポタッソーです。これは軍隊用語でより低い階級を付けるという意味があります。つまり聖書において従うとは、謙遜、忍耐、やさしさ、争いを好まぬ態度のことであります。
 さらにこの従うは、他の訳では互いに相手を立てる、あるいは互いに仕え合うべきと訳されています。
 これらは肉による歩みによっては実行できないのです。
 『御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためにあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。』 ガラテヤ5章16、17節
 神様を礼拝し、お互いの交わりが祝福され、神への感謝、神を恐れ、神への従順、人への従順は、
まさに聖霊様の働きと助けなくしては難しいのです。

 『御霊に満たされなさい』
 その大切さは言うまでもなく著者であるパウロ自身が伝道生涯の中でたえず実感していたはずです。