『神様は私たちとともにおられます』2014年12月21日(日)クリスマス礼拝 マタイ1章18ー25節

「神様は私たちと共におられます」 14.12/21
   マタイ1章23節 クリスマスメッセージ
 クリスマスおめでとうございます。
 さて今年も早いもので残り少なくなりました。来週は新しい年を迎えますが、新年は神社に参拝される方がたくさんおられます。
 ちなみに2006年(2009年以降は参拝人数は表記されなくなりました)の参拝人数は9,373万人でした。およそ国民の78%の人が正月には神社に参拝されるのです。
 私も小学生の頃に何回か、父と父の友達と桜井の大三輪神社で火をもらいに行きました。神社で火縄のようなものを買って、たいまつから飛び散る火を火縄につけて家に持って帰リ、その火で七輪に火を起こしてお雑煮を食べることが1年の福になるというものでした。ただ当時の自動車は軽トラック(ミニかー 50年以上も前)で、前は2人しか乗れず、私は荷物を積む所に乗って家に着くまで、火が消えないようにひたすら二本の縄をぐるぐる回すことでしたが、火を消さないということも大変でしたが、外の寒さは非常に辛かったことを覚えています。
 もう一つ記憶に残っているのは、24歳の時の正月に、京都の平安神宮に職場の人と参拝したことです。本殿の前で100円硬貨を賽銭箱に投げ入れて、「神様、今年も一年間私の健康をお守りください!」と手を合わせてお祈りしたのです。 
 でも手を合わせてお祈りをしている神様がどのような神様かはよく分からないままでした。それは、仏様という信仰心においても同様でした。
 普段は滅多に仏壇の前に座って拝むことはなかったのですが、高校3年生の時に仏壇の前に座って、すでに死んだおばあちゃんに思いを馳せて、「今2つの会社の採用試験を受けようとしているんやけど迷っているね。どっちを受けたらいいかな」と手を合わせたのです。その当時は仏壇の中におばあちゃんがいるというのが私なりの信仰心だったのです。
 やがて社会人になり、職場の先輩の共産主義の思想に感化されて、20歳の時に無神論者となりました。とはいえ、神はいないと言いながらも、先ほど言いましたが24歳のときの正月に平安神宮でお祈りをするという矛盾する自分があったのです。
 このような矛盾する神観念、あるいは曖昧な信仰心を持っているというのは私だけではないと思うのです。
 というのは、何か事あるときに神様や仏様にお願いをしますが、では日常においてどれだけ神様や仏様を意識して生活をしているのかということであります。
 そのような矛盾した神観念を持ち、あるいは曖昧な信仰心であった私が、26歳の時にいつでも共にいてくださり、目には見えませんが、いつでもお祈りを聞いてくださるという神様に出会ったのです。
 それは26歳のある日の真夜中でした。神はいないと豪語しながらも、「神様。あなたは本当におられるのですか」と相変わらず矛盾した信仰心のまま、知人のクリスチャンに教えてもらった通りに、キリストの名によってお祈りをした時に、この世にはない心の平安を経験したのです。
 私のつたない祈りに答えてくださった神様こそが、まさにクリスマスに登場するイエス・キリストであります。
 もう一度聖書を読みます。「見よ。処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。訳すと、神は私たちとともにおられるという意味である。」
 けさは、ここからクリスマスの主人公であるイエス・キリストについての3つの知らせについてお話しさせていただきます。
 第1の知らせとは、イエス様は処女マリヤの胎を借りて人となって神の御国から私たちの世界に来られたという知らせです。
 ① マタイ1章23節
 イエス・キリストは、人々の中で不思議な奇跡を数多くなされました。
 少年が持っていた5つのパンと2匹の魚をどんどん増やされて1万人以上の人々に与えられたのです。
 あるいは、親しくしていたマリヤとマルタの弟が病気で亡くなりました。しかしイエスはすでに死んで4日目になっていたのに、ラザロを墓から生き返らせたのです。これらはほんの一例に過ぎません。
 このような奇跡が神様を信じるのに高いハードルとなっている人が少なくありません。
 ある人はかつての私のように奇跡があるからキリスト教は信じられないと言われるのです。
 しかしあるクリスチャンは、私は聖書の中に奇跡があるから神様を信じることができたのですと言われたのです。
 実は奇跡を見てキリストは神様であると信じることは難しいのです。なぜなら奇跡を目の前にして見ていたにもかかわらず、多くの人々はキリストを神の御子と告白できず、その人々のなかには、キリストを十字架にかけることに心から同意したのです。
 それは人々がキリストを私たちと同じ人間として見ていたからです。もしキリストを神の国から来られた神の御子と信じるなら奇跡でつまずくことはなかったはずです。
 「見よ。処女が身ごもっている。」
 不可能な中にこそ神がおられ、神を見出すことができるのです。
② ルカ1章37節
 2つ目の知らせとは、神様(=イエス・キリスト)は私たちとともにおられるという知らせであります。
 皆さんにとって家族。あるいはお友達や職場の人々は大切な存在であると思います。
 今日独居老人が増えつつあります。そのために、ひとり寂しく息を引き取られるという孤独な死があります。少なくともだれかに看とられて息を引き取りたいと思うのは私だけではないはずです。
 子どもたちや若い人たちの中には、友達を失いたくないために、いじめる側に立つということさえあるのです。大人の世界も同様です。主婦たちが、仲良し友達から外されることを恐れて、そのように思ってもいない人の悪口にも同調してしまうことさえあるのです。  これらの裏返しは、人はひとりで生きることができないということなのです。
 互いに支え合い、互いに助け合って生きていくのが人間なのです(困っている人を助ける:大阪3分、東京10分)。
そのような支えや助けを失う時に、人は孤独を覚えるのです。人はだれでも、ともにいてくれる人を必要としているのです。
 ③ 伝道者の書4章9—12節
 それだけに自分にとって大切で身近な人を失った時は、悲しくて辛いものです。
 では、人がこの世に生まれて来て、家族や人との出会いは、やがて死別による悲しむためだけのものでしょうか。
 そうではないのです。人は死ぬために生まれて来たのではなく、目には見えませんが身近におられる神様とともに生きるために生まれて来たのです。
 そのことを知らすために、そしてそのことを信じることができるようにイエス様はこの世界に人となって来てくださったのです。
 たとえこの世にあるすべてを失うことがあっても御子イエス様は私たちの永遠の友となってくださるのです。
④ へブル書13章5節
 3つ目の知らせとは、「見よ!」ということばにあります。SEEよりもじっとしばらく見つめているという意味があるBE HOLDOが使われています。キリストの誕生、キリストのなされた奇跡、キリストの教え、キリストの生涯、そしてキリストの十字架の死と復活について詳細に書かれている聖書を開いて信仰を持ってBE HOLD(じっと見つめる)ときに素晴らしい神様にお会いできるという知らせでなのす。
使徒の働き17章27節
 最後に3本の十字架のお話をして終わりたいと思います。
 罪を犯されたことのない神の御子キリストは私たちの罪を背負って午前9時にゴルゴダの丘で十字架にかけられたのです。その右と左には極悪人がいたのです。
 ふたりの極悪人は、道ゆく群衆、指導者たち、兵士たちと同じようにイエス様をののしりました。お前が神なら自分も俺たちも救えと悪口を言い続けていたのです。ところが12時頃になって、ひとりの極悪人は、ののしっている彼をたしなめて、我々は、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこのお方は、悪いことは何もしなかったのだ。そして彼はイエスを見上げて言ったのです。「イエス様。あなたの御国の位にお着きになる時には、私を思い出してください。」その直後にイエスは彼に言われたのです。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイス(天国)にいます。」
 極悪人が救われるはずがないのです。しかしこの極悪人は、罪なき神の御子イエスが罪ある私たちの身代わりとなられたキリストを見つめた(信じた)ことによって救われたのです。これらのことはすべての人々のためのクリスマスメッセージなのです。ヨハネ3章16節をご一緒に読みましょう! 
ヨハネ3章16節