『クリスチャンの武具』2014年12月14(日)エペソ6章13ー20節

「クリスチャンの武具」   2014/12/14
             エペソ6章13−20節
 かつてキリスト教界において、霊の戦いという言葉が行き交う時がありました。信仰は目に見えないサタンや悪霊との戦いでもあるから、それに対抗するのは祈りであるというものであります。 
 ずいぶん以前のことですが、ある婦人が教会に来られて、その方のお話の内容(霊が見える)と、この方の状態から判断して、どうもこの方には悪霊がついているのではと思い、私は大きな声で「サタンよ下がれ」と祈りました。
 ところで本当にその人にサタンや悪霊がついていたのかということですが、その後この方の精神的な問題であって、サタンや悪霊の働きから来る症状ではないことが分かってきたのです。
 目に見えない世界について取り扱うというのは慎重さが求められます。そして信仰による霊の戦いにおいて無知あるいは無防備であるなら、彼らの策略に翻弄されて、私たちの信仰が弱められるという危険性があるのです。
 さて、パウロは信仰者の霊の戦いについて触れているのがエペソ6章であります。特にけさの箇所は、キリスト者の武具について語っています。聖霊に導かれて書き記したパウロは、目で見ることのできない悪霊やサタンとの戦いにおいて、クリスチャンが身に付けるべき大切なものについて語っているのです。
 では霊の戦いにおいて、パウロが教えているクリスチャンが身に着けるべき武具とはいかなるものでしょか。
 それは、当時のローマ兵の武具を見立てたものと思われます。
 14節:まず腰には真理の帯を締めるように勧めています。腰とは読んで字の如し体の要部分です。何をするにも腰に力を入れないと思うように体は動かないのです。
 特にスポーツをする人にとって、腰に力を入れるというのは基本中の基本です。私は中学から高校までバレーボールをしていたのですが、試合中よく監督に注意されたのは、「お前ら腰が浮いてるぞ」という忠告でした。緊張してしまって、腰がしっかりと床あるいは地面に付いていなかったのです。そうなるとボールが来てもすばやく反応できないのです。
 当時のローマの兵隊も同様です。腰に帯を巻いて、剣を身に付けていても、腰の帯が緩んでいたのでは話になりません。肝心要の剣をしっかりと身に付けることができないのです。
 クリスチャンも真理という帯を体にしっかりと巻きつけ、身に付けた剣(みことば)を持ってサタンや悪霊たちの策略(悪巧み)から守られる必要があるのです。
 では腰には真理の帯という真理とは何でしょうか。それは三位一体の神様をしっかりと信じて、そのお方に従うことが霊的な戦いの武具とすべきであります。
 次にパウロは、胸には正義の胸当てを着けるように勧めています。兵隊の胸当ては、敵が放った矢から身を守るためのものです。つまり防御的武具であります。サタンや悪霊たちの攻撃から身を守るために、クリスチャンは正義という胸当てを着けなければなりません。 
 ではサタンや悪霊たちが放つ矢とはとは何でしょうか。それはクリスチャンの生き方を見て、その落ち度や不義や不正を見つけては神の前に訴えることです。
 さらに神ご自身と神のみことばを疑わせて、その信頼関係を揺るがすことです。そのような敵の攻撃に対して、正義という胸当てを着けなければなりません。それは神の義であり神の真実です。
 私たちは神の義(キリストの身代わり)のゆえに正しい者と認めて下さっているのです。決して自分の義によるのではないのです。自分の義によってサタンや悪霊たちの前に立つことはできないのです。
 もしそうなら、私たちの不真実や不誠実はあばかれ、失望落胆に陥るのみです。しかし神の義は私たちがいかなる罪人であったとしても、その義を持って私たちを覆い守って下さるのです。
 みことばを見ましょう。ローマ書8章33,34節『神の選らばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。』
 ですからキリストにある正義の胸当ては、いかなる敵の攻撃からも守られるということを信じなければならないのです。
 次は15節です。足には福音の備えをはきなさいと勧めています。戦いにおいて、長期の遠征を余儀なくされます。そこで大切なのは足を守る履物が丈夫であることです。
 私とI先生とで上海に行ったときに、観光の手段は朝から夕刻までほとんど歩くことでした。さすがに3日目になりますと、I先生の方から、先生休憩しましょうと声がかかりました。そして彼は足が痛むので靴下を脱いだ所、なんと靴擦れで痛々しい状態でした。それとも知らずに私はどんどん前に進んでいたのです。その時に気付いたことがありました。それは私の靴にはエアークッションが着いていたのです。歩き疲れなかったのは靴の差でもあったのです。距離が遠くになればなるほどどのような靴を履いているかによってコンデイションが違ってくるのです。
 ではクリスチャンにとっての福音の備えを履くとはどういうことでしょうか。それは人から人へと足を運んで福音を宣べ伝えることです。福音は人々を悪魔の支配から解放するための武器です。
 ひとたびこの武器を使うと、サタンや悪霊たちは人々が救われないようにと妨害してくるのです。福音を語らないように、聞かせないようにとあらゆる手段を使って邪魔をするのです。私たちが福音を語ることに躊躇することや、恐れることや、あるいはそのうちに語ろうと後回しにしてしまうという思いは、サタンや悪霊たちが働いている可能性もあるのです。
 みことばを見ましょう。ローマ書10章14、15節『しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がいなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。「良いことの知らせを人々の足は、なんとりっぱでしょう。」』
 神と人との平和をもたらす福音は停滞するとその力が陰りますが、力強く前進すると神の救いという光を放つことができるのです。
 続いて16節は、これまで身に付けた武具とともに信仰という大盾を取りなさいと勧めています。いかなる武具を身に付けても、盾がないなら敵の放つ矢から身を守ることはできないのです。
 身を守るだけでなく、味方同士が互いの盾を利用して、飛び交う敵の矢から身を守られて敵地に向かって攻撃することができるのです。
 クリスチャンにとって信仰の盾は、敵の誘惑や、不信や、悪巧みといった矢であっても、神への信仰というゆるぎない信頼関係によって敵が放つ矢の攻撃から身を守ることができるのです。
 とはいえ、いかなる時も神様を信じ続けるというのは決して容易なことではないのです。信仰という盾が大きいほど重くて、手から離したくなるものです。しかし大きい盾ほど矢から身を守ることができるのです。
 私たちの信仰という盾には大きな穴がいていないのか、身を守るだけの十分な大きさであるのか、盾の材質は大丈夫なのかをチェックしないといけないのです。
 つまり信仰の強度を測ることです。それはみことばにどれだけ信頼しているのかというテストであります。
 次の17節は、救いのかぶとをかぶりなさいという勧めです。かぶっているかぶとがぐらついては戦いにおいては何の役にも立ちません。  時々見かけるのですが、単車に乗っている人のヘルメットのかぶり方が良くないのです。もし事故に遭えばヘルメットは何の役にも立たずに、大切な命を失うこともあるのです。
 かぶとをしっかりとかぶるとは、信仰の確信をしっかりと持つことです。救いの確信がぐらついては信仰の歩みもふらつきます。救いの確信をしっかりと持って歩む人は、進むべき道をしっかりと見据えて歩むことができる人です。
 もし救いの確信がないならば、信仰についての基本的なことを学び返しましょう。それは決して恥ずかしいことではないのです。もし信仰の確信が曖昧であるなら、信仰生涯において大きな損失となりかねないのです。
 次に御霊の与える剣である、神のみことばを受け取りなさいという勧めです。剣と同様にみことばもまた切れ味があります。それは心の中を刺し通す力があるのです。サタンや悪霊たちはみことばの剣という武器を非常に恐れるのです。なぜなら神のことばだからです。
 荒野でイエス様がサタンから誘惑を受けられた時に、イエス様はすべてみことばを用いられてサタンを退散させられたのです。
 神のみことばは聖霊によって導かれたものです。十全霊感と呼ばれています。ですから悪魔の入る隙はないのです。神様を信じる者がしっかりとみことばに立つなら、サタンは離れて行くのです。
 最後は18節です。最後の武具は祈りであります。それはパウロ自身も祈りの重要さを身にしみて実感していたのです。
 祈りはどれだけクリスチャンを助け導き、守り支えているかをはかり知ることはできないのです。
 バークレーの引用です。『ユダヤ人は、祈りの中で自分自身を集団と結合させなさい。という格言を持っていた。時として、私たちの祈りがあまりにも自分自身のためであって、他の人のためでないように思われる。自分自身のために祈ると同じぐらい熱心に他の人のため、また他の人に関して祈れるように学んでいかなければならない。』と。人のために犠牲を払って祈るとりなしの勧めです。
 さて、いかに強固な武具を身に付けていたとしても、その戦いは自分を守るだけのものとするなら、霊の戦いの意味は失われるのです。霊の戦いにおける敵はどういう者たちであるかを明確にすべきです。
 霊の世界を甘く見ては危険です。彼らは私たちよりも賢く、力があり、はるかに強敵であることを知らなければなりません。
 その認識によって、クリスチャンは神の武具を身に付けなさいというパウロの勧めをしっかりと受け止めることができるのです。