「嵐を静められたイエス」 15,1/4    —人生における助け舟—  マルコ4章35節〜41節

   「嵐を静められたイエス」 15,1/4
   —人生における助け舟— 
           マルコ4章35節〜41節
 神の御子イエス様がこの世界においで下さった目的の中で大切なことがありました。それは弟子たちを訓練することでした。
 イエス様によって選ばれた弟子たちは、イエス様と同行して多くの経験し、また多くの教訓を得たのです。
 そして弟子たちの学びの場所のほとんどは屋外でした。
 今回の湖での危機的な出来事においても、弟子たちにとっては貴重な信仰の良き訓練の機会となったはずです。
 さて、このガリラヤ湖は地形的な要因によって、突風に悩まされることがしばしばありました。時には命がけの漁になることもありました。
 ある夕刻に、イエス様は湖の状況などあまり気に留められずに『さあ、向こう岸に渡ろう。』と言われたので弟子たちは船を出したのです。ところが、弟子たちが恐れていたガリラヤ湖特有の激しい突風が吹いて来たために、舟(15—20人乗り?)は波をかぶり、水で一杯になり舟が沈みそうになり、弟子たちは非常に恐れ、舟のともで寝ておられるイエス様を起こして「主よ。助けてください。私たちは溺れそうです。」と叫んだのです。
 ところがイエス様は、慌てふためいている弟子たちに向かって「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」と言われて体を起こされて、「風と湖を叱りつけられると、風はやみ、大なぎになったのです。」
 そして、イエス様は弟子たちに「どうしてそんなにこわがるのです。信仰ないのは、どうしたことです。(マルコ4章)」とパニック状態の弟子たちをたしなめられたのです。
 実はこのような危機的な時こそ、弟子たちにとっては信仰が試される時だったのです。
 では、けさはイエス様が弟子たちに言われた信仰の薄さとはどのようなものであったのかを見ていきましょう。
 まず第1に、彼らはイエス様とともにいることが何よりも安全でかつ安心であるという信仰が持てなかったのです(35節−37節)。
 だれであっても危機的な状況に追い込まれた時は、必死で助けを求めるのは当然のことです。弟子たちはこのままだと溺れそうだと命の危険を感じて、ぐっすりと寝ておられるイエス様のところに行って助けを求めたのです。
 ところが、イエス様は「なぜこわがるのですか。信仰の薄い者たちだ。」と叱責されたのです。
 ここでは弟子たちが助けを求めたことを咎められたのではなく、弟子たちが危機的な状況において、イエス様がともにおられるから大丈夫という信仰を持てなかったことを叱責されたのではないでしょうか。
 では弟子たちは、このような状況の中でどのような信仰を持てば良いのでしょうか。
  かつて牧師リトリートにおいて、フリータイムの時の出来事ですが、泳ぎの自信もないのに少しだけ沖に出ました。ところがこむら返りを起こしてしまって、このままだと溺れてしまうと思い、当たりを見渡すと近いところにF先生がおられたのです。「先生、こむら返りやね」と叫びますと、先生はすぐに私のところに来てくれて助けてもらったのです。それ以来F先生は私の命の恩人となりました。まさに、たまたまF先生がそばにおられたことで、私は命拾いをしたのです(神様の守りでもあったと思います)。
 私たちが信じている神様は、たまたまおられたとか、あるいはおられなかったというお方ではないのです。
 主イエス様は「わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28章20節)。また「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」と約束されたのです(ヘブル13章5節)
 「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(へブル12章2節)
 今年も、私たちと共におられるイエス様から目を離さないで歩みましょう!
 次にイエス様が弟子たちに言われた信仰の薄さとはどのようなものでしょうか。
第2は弟子たちが恐れに包まれてしまった結果、神の御子としてのイエスを見失ったのです(38節—39節)。
 これまで弟子たちは、イエス様の数々の奇跡を目の前で見て来たのです。
 カナでの水を葡萄酒に変えられました。役人の子のいやし、奇跡的な大漁、悪霊につかれた人のいやし、ペテロの妻の母の病のいやし、ライ病人のいやし、中風の人のいやし、やもめの息子の生き返りなどがあげられます。
 そのようなみわざをなされるイエスに信頼できずに、疲れて舟のともでぐっすりと寝ておられるイエス様に対して弟子たちは、イエス様は私たちことを本当に心配してくださるお方なのかと、信頼するどころかむしろ批判的な思いになっていたのかも分かりません。
 私たちも、自分の願いや思いとは異なる状況に陥ったときに、神様どうしてといった不信や疑心暗鬼になってしまうことはないでしょうか。
 神様はこのようなことをなさるはずがない。あるいは、神様は私のことを忘れられたのではという思いに包まれる時は、すでに信頼すべきお方を見失っている不信仰な状態なのです。
 神様への信頼を妨げる原因の一つに、自分の考えや、感情や、願いが優先してしまう時であります。
 @やっとの思いでエジプト奴隷から解放されたイスラエルの民が、荒野で食糧がないことや、水がないことにつぶやきました。
 それは荒野での窮乏が、奴隷から解放してくださった神様の恩義を忘れさせ、幾百万の民を荒野で養ってくださったことが、神様に対する信頼とはなることなく、むしろ不平不満やつぶやきとなってしまったのです。
 ここでは、自分の思いや感情に頼り過ぎると神様を見失うのです。
 ですから、神様におゆだね(お任せ)して行くことが大切なのです。 
 確かに弟子たちは、嵐を恐れて神の御子イエスへの信仰を失ったのですが、イエスに助けを求めたことを叱られたのではないことに注意を払いましょう。
 弟子たちの不信仰に関わらず、イエス様は弟子たちの叫びに答えられて、波を静められたのです。
 どのような状況であっても、神様は最善を備えてくださると信じて執拗に祈り求めることです(ルカ11章5節〜、18章5節)。
 最後にイエス様が弟子たちに言われた信仰の薄さとはどのようなものでしょうか。
 第3はイエス様が語られてことばを、聞くだけでなく、信仰に結びつけることができなかったのです(40—41節)。
 先ほどは、弟子たちはイエス様がなされた数々の奇跡を見て来たにもかかわらず、直面した危機によってパニック状態になり、信仰が働かなかったのです。
 信仰は過去の経験や体験から学ぶだけでなく、いざという時に働くかどうかが試されるのです。
 過去において、非常に危機的な状況の中で、神様に助けていただいた経験から神様への信仰が高められ、次の試みの時には、成長させていただいた信仰によって乗り越えて行くということが大切なのです。
 私たちは、試練に会うたびに今までに養われて来た信仰がリセット(初期化)されてはいけないのです。
 ではどのような状況にいても、しっかりと信仰に立つための秘訣は何でしょうか。
「その聞いたみことばも、彼らには益にはなりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって結びつけられなかったからです。」へブル書4章2節
 嵐に翻弄された弟子たちだけでなく、私たちもイエス様が舟に乗る時に彼らに言われたことばを思い出しましょう。
 『さて、その日のこと、夕方になって「さあ、向こう岸ヘ渡ろう!」』(35節)と言われたのです。
 乗り合わせた舟が思いがけない嵐によって沈みそうになりましたが、舟に乗る前のイエス様のおことば通りに、弟子たちは無事にゲラサ人の地に着いたのです。 
 私たちが持っているこの確かな神のみことばである聖書は、先行きが見通せない、いつ何が起こるのか分からない不安な時代の中でも、私たちの歩むべき道を照らし、間違いなく安全なところへと導いてくれるのです。
 それだけでなく主イエス様は、いつも共にいてくださり、イエス様とともに歩むなら、最も安全で幸いな人生行路、あるいは天国への確かな道のりとなるのです。
 今年も私たちの人生に何が起こるのかは、だれにも分かりません。しかし、主とともに歩むなら、道中いろんなことがあったとしても、乗船する前に主が弟子たちに語られたように、必ず向こう岸(主が導いてくださる所)に必ず着くことができるのです。