「人知を超えた神様の導きと御旨」  出エジプト記1章1−22節 2015年1/11(日)

「人知を超えた神様の導きと御旨」
 出エジプト記1章1−22節 15年1/11 
 よく「危機はチャンス」であると言われるのですが、すべての危機的なことがいつもチャンスになるとは限らないのです。
 危機的な状況に直面して、もう駄目だとあきらめてしまう、あるいは何とかして危機を乗り越えようと努力しても状況は一向に良くならないこともあるのです。
 たしかに、この聖書は危機的な状況が必ずしも好転するとは約束していないのですが、聖書に記されている出来事の中には、危機がチャンスになったという出来事の事例も数多くあるのです。もちろん、そのようにならなかった出来事もあるのですが、場合によっては自分のせいで招いてしまった危機的なことも含めて、それらの出来事の結果を神の御旨として受け入れるという信仰が求められるのではないでしょうか。
 では、まず危機的な状況の中で、信仰のよって危機を逃れた例証を見ましょう。
 金の像を拝まなければ、灼熱の火の炉に投げ入れるとバビロンのネブカデネザル王の言葉に屈せず、ダニエルは、『もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。』
(ダニエル書3章17,18節)
 ダニエルは、神の御手にすべてをゆだねるという信仰の持ち主でした。結果的には神はダニエルを火の炉から救い出されたのです。そして悪王ネブカデネザルは、ダニエルが信じる神に敬意を表しました。
 次に信仰に立って、祈ったにもかかわらず、祈りが聞かれなかった、悪い状況が改善されなかったという例証です。
 パウロには肉体にひとつのとげがあり、その癒しのために神に3度祈りましたが答えはノーでした。
 そこでパウロは、『しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。』(第二コリント12章7−9節)と主の御旨(導き)を大切にするという信仰を持っていたのです。 
 パウロが祈ってもいやされなかったのは、不信仰だったからではないというのは言うまでもないことです。いやされないことが神様の御旨だったということです。時には、神様の導きは私たち人間の思いを超えたものとなるのです。
 さて、次に出エジプトの出来事にお話を進めますが、
 父ヤコブとその家族総勢70人、ヤコブ家族以外の人たちも、飢饉を逃れてエジプトに来たのです。かつて動物の餌食となって死んだと思っていた最愛の息子ヨセフがエジプトの宰相となっていた。
 その特権と恩恵のゆえに、ヤコブの一族はエジプトの王から只ならぬ恩義を受けたのです。
 ここにも神様の導きと配剤を見るのです。ところが8節を見ると、ヨセフのことを知らない新しい王が登場したのです。
 この王が3代目、4代目であるかは定かではありませんが、かなりの年数が経っていたと思われます。
 たしかに、長い年月の経過は世に変化をもたらし、人の思いも変わっていくものです。
 後世に良きものをしっかりと継承するなら、大切なものはしっかりと受け継がれていくはずです。
 私たちに与えられたすばらしい信仰を継承されていくなら、いかに時代が変わっても、人々の思いが移り行くとも、受け継がれた信仰は多くの人々に祝福をもたらすものとなるのではないでしょうか。
 ヨセフを通してすばらしいみわざを成された神様について、しばらくは多くの人々が神様をあがめ、神様について多くのことが語られていたことでしょう。
 しかしそれらは長続きせず、神の民といわれていたイスラエルの民はエジプトの奴隷(430年間)となり、過酷な労働の中、また多くの年月が過ぎ行くなかで偉大なる神への信仰がいつしか失われて行ったのではないかと思われます(8−11節)。
 そのようなイスラエルの民の霊的な不毛状態に追い討ちをかけるように、エジプトの王は、益々増えるイスラエルの民に脅威と恐れを抱き、イスラエルにさらに重い苦役を課したのです(12−14節)。
 それだけではなく、王は生まれてくるイスラエルの男の子は生かさず、殺すようにとイスラエル助産婦たちに命じたのです。
 イスラエルの民にとっては、エジプトの灼熱の中での重労働は将来の希望を奪われ、死の選択だけが日々の苦しみから逃れることができる唯一の道であるという厳しい状況でした。
 決して「危機はチャンス」などとは軽々しく言えないほどの試練に置かれていたのです。
 私たちも人生において、遭遇した試練が厳しければ厳しいほど、信仰が働くのではなく、むしろ信仰が役に立たない、信仰が何の助けにもならないという苦い経験をするかも知れません。
 現にイスラエルの民は、鉄の炉という試練の中でヤーウエなる唯一神への信仰は風前の灯火だったのです。
 かつて神様がアブラハムに、『さあ天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。さらに仰せられた。あなたの子孫はこのようになる。』
(創世記15章5節)
と約束されたのです。ですから、神様の約束が、エジプトにおけるイスラエルの民の不信仰によって覆されることはなかったのです。
 まさしくイスラエル民族の危機的な状況が大きなチャンスとなるために用いられたのがイスラエル助産婦シラフとプアでした。
 おそらくこの二人は大勢いた助産婦たちの責任者であったと思われます。彼女たちは王の残酷極まりない命令には従わずに男の子を生かしておいたのです。それは彼女たちが王の命令よりも神を恐れていたからです。その結果彼らの家は栄えたのです。先ほどのダニエルと共通するものです。
 両者とも異教の王よりも恐れるべき方を恐れたのです。もちろんそれは決して容易なとではなく、ふたりの助産婦たちが置かれた状況を考えるなら非常に厳しいものがありました。
 イエスかノーの二者選択を迫られた時に、しっかりと信仰に立つというのは決して容易なことではないのです。
 イエスの弟子ペテロも女中に追い詰められた時に、そのような人は知らないとイエスを三度も否みました。人を恐れ過ぎた結果、ペテロの信仰は振るわれたのです。
 助産婦たちも、子どもを生かすか殺すかの二者選択の決断に立っていたなら、王を恐れて、王の命令に聞き従っていたかも知れないのです。
 しかし彼女たちは、ダニエルと同じくこの世の王よりも、全能の神を恐れたことが信仰の勝利へと導かれたのではないでしょうか(ルカ12章4節、5節)。決してシラフやプアに他の人とはかけ離れた特別な信仰や勇気があったからではないと思います。
 クリスチャンが迫害された時に、すべての信者たちが信仰を守り通したのではありません。棄教した者も多くいたのです。
 あるいは自分だけが迫害から逃れるために仲間を裏切ることもあったことでしょう。
 では信仰を守り抜く力はどこにあるのでしょうか。
 パウロの信仰です。『私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。』(ピリピ4章13節)
 助産婦たちの神を恐れる行為によって、イスラエルの救世主となるモーセが誕生するという神の前もっての救いと選びの計画が備えられたのです。
 神様は私たち信仰者とともに働かれるお方であります。ですから私たちも、身の回りに起こってくる事象をいつも神様の目線でしっかりと見て、あるいは神様の御旨は何かを悟り、神様のお考えならゆだねて行こうとする信仰が求められるのです。 
 もちろんそれほど簡単に神様の目線、御旨、計画がすぐに分かるはずはないのです。それどころか、疑ったり、不信仰に陥ってしまうことすらあるのです。
 事実、助産婦達が神を恐れて、男の子を生かしたにもかかわらず、王は「生まれた男の子はみなナイルに投げ込め」というさらに恐ろしい命令を下したのです。
 助産婦たちがしっかりと信仰に立っていたにもかかわらず、なお世の悪の力が勝るかのような事態となったのです。
 しかし、私たちが神様の導きに従ってもなお厳しい状況の時こそが神様の出番(ご介入)であると信じましょう。
 神様によってなされたこととは、生まれてくる男の子モーセが神様の御手によって守ることでした。それはモーセによって、愛する幾百万のイスラエルの民を救うためだったのです。
 けさの聖書の箇所から教えられる1つの大切なこととは、私たちの力ではできないことや、どうにもならないことは神様に任す(おゆだねする・信頼)という信仰が求められているということではないでしょうか。それは消極的(あきらめる)なものではなく、積極的(神に期待する)な信仰なのです。
『民よ.どんな時にも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ.神は、われらの避け所である。』(詩篇62篇8節)