「指導者モーセの苦悩」ー今にあなたに分かるー 出エジプト記5章−6章1節 2015年 3月1日(日)

     『指導者モーセの苦悩』 
     −今にあなたに分かる− 
     出エジプト5章ー6章1節 15.3.1
 イスラエルの民はおよそ400年もの間エジプトの奴隷として苦しめられていたために、彼らは天の神に救いを求めたのです。神はアブラハム・イサク・ヤコブとの契約を思い起こされ、苦役で苦しむ民に目を留められました(2章23、24節)。
 そのために神はモーセを指導者として選ばれた。そして神様は、イスラエルの民を救い出すという約束をまずモーセに知らされ、モーセからアロンとイスラエルの長老たちに知らされた後に、アロンから民に知らされたのです。神様のしるしが伴うアロンのことばを民は信じたのです(28-31節)。 
 この知らせは、重い苦役の中にあったイスラエルの民にとっては大きな慰めであり、励ましであり、希望でありました。
 そして、いよいよモーセとアロンは、神様の命令に従って、恐らく二人はすこぶる緊張と、大いなる期待を持ってパロのいる宮廷に向かって行ったことでしょう。
 さて、モーセとアロンがパロの所に行って神様のことばを告げた内容は、三日間の旅路と荒野で神様のためにいけにえをささげさせてくださいというものであった。
 それを聞いたパロは、お前たちの言うイスラエルの神とは一体何者なのか、私は主を知らないと言ったのです。
 パロは、偶像の神々を祭ってはいたが、神を恐れ、神に従う真の信仰者ではありません。彼の関心はこの世の栄誉、栄華、栄光のです。それを手にするためにイスラエルの民を利用しているのです。
 当然ながら、彼の答えはノーでした。それだけでなく、パロはイスラエルの苦役をさらに過酷なものにしたのです(7-9節)。
 この報告を聞いたイスラエルの人夫かしらたちは、非常に困惑し、パロのもとに行って直談判するも聞き入れられなかったのです。
 そこで彼らはモーセとアロンに、向かって、あなたたちのしていることは、エジプトの手に剣を渡して私たちを殺そうとしているのと同じですと訴えたのです。
 それを聞いたモーセは主のもとに戻り祈ったのです(19-23節)。そして、アロンとモーセは非難の的となってしまったのです。
 何よりもリーダーであるモーセは苦境に追いやられてしまったのです。これがけさの箇所の大筋であります。 
 さて、私たちも信仰によって行動したのに思い通りに行かない。あるいは結果が悪かったために、神様どうしてですかと不信仰に陥るという経験はないでしょうか。
 榎本保朗先生は、一日一生という著書の中で、「信仰というものは、こうしたもだえや、苦しみから始まるものです。」と書いているのです。
 モーセが指導者となって最初の試練です。もちろん信仰によって歩むというのは素晴らしいことです。しかしそれは必ずしも万事事がうまくいくという約束が伴っているということではないのです。
 モーセの提案は、パロにとってはまさに馬耳東風です。世のことにしか眼中にないパロにとっては当然受け入れがたいものでした。パロは当時の世界の君主であり、支配者であり、独裁者であったのです。奴隷であった民の神様など相手にするはずがありません。
 さてけさは、モーセはどのような苦境に立ったのか、そしてその苦境の中でどのような信仰を持てば良いのかを見て行きましょう。
 1.モーセたちは主に従って行動しましたが、事態がより悪くなったのです(1—18節)。
 モーセとアロンは主に従いましたが、そこに立ちはだかったのはエジプトのパロ王でした。
 モーセとアロンは、パロ王に自分たちの信仰のゆえに、荒野に行って神を礼拝したいと申し出たのですが、言うまでもなく受け入れられませんでした。
 そこでモーセとアロンはひるまずに、私たちの民が神様にさばかれないために荒野で礼拝するための3日の猶予を願い出たのです。
 パロ王は、彼らの申し出は策略であると考えた結果、奴隷であったイスラエルの民の労役をより重いものにしたのです。
 真の神を知らないパロにとって、神を信じている者たちを正しく理解することは容易ではないのです。そのお方を恐れ、大切にし、そして従う理由を理解することができないばかりか理解しょうともしないのです。
 それはパロのような権威者だけではないのです。身近な人であっても同様ではないでしょうか。
 私たちの信仰が、ご主人や妻や子どもたち、そして友人や知人たちに分かってもらえないというもどかしさが常にあるのではないでしょうか。
 何で分かってくれないのと思うのですが、知らないことは理解できないのです。あるいは関心がないものには、知りたいとも思わないのです。
 神様を知ろうとしない、あるいは神様に無関心であるというのは神様から全く遠く離れている状態であることを理解する必要があるのです。
 ただし自分自身もかつてはそのような者の一人であったことも忘れてはいけないのです。
 なぜならそのような者をも神様はあわれんで救ってくださったからです。
 私たちクリスチャンは忍耐を持って、できる限り身近な人たちに信仰の証しをしましょう。  そしてとりなしの祈りをささげましょう。
 蒔かれた種は必ず刈り取りの時が来るのです(126章5節)。どのように刈り取られるかは神様に委ねましょう。
 さて、モーセとアロンは神様に従ったにも関わらず、その結果むしろ悪い状況を招いてしまったのです。
 では、このような結果になってしまったのは、神様に問題があるのでしょうか。あるいはモーセたちに不備があったのでしょうか。もちろんそうではないのです。 
 神様に従うことと、事がうまく運ぶ事とは別問題であるということを知る必要があるのです。
 つまり信仰によって行動したことが必ずしも良い結果をもたらすとは限らないのです。
 その理由とは、この世は神様の働きの協力者ではないのです(ヨハネ15章18節、16章33節、)。
 なぜなら、それは信じているのになぜこのような悪いことが起こるのかという間違った信仰理解から守られるためです。
 何でも自分が思うように事が成るなら、祈りを重要視しなくなるでしょう。それは高慢の罪を犯すことにもなるのです。
 むしろ信仰は数々の試みを通して成長していくものです。
 厳しい状況に置かれる時もあるのですが、それは、神様への変わらない確かな信仰を身につける良い機会となるのです。
 次に第2の事を見ていきましょう。モーセたちは神様の命令に従いましたが、民との不一致が生じたのです(20—21節)。
 確かな信仰を持ったリーダーに従う時の心得とは、まずリーダーを信頼することです。良い結果を得ることを急ぎ過ぎてはいけないのです。
 リーダーだけでなく、民も信仰によって歩み、ともに祈る者でなくてはならないのです。また不一致はお互いの信仰を惑わすものです。
 4章30、31節で見る民の信仰告白は早くも暗雲が立ちこめてしまったのです。彼らは信仰に立つのではなく、指導者であるモーセとアロンを強く非難したのです。
 立ちはだかる問題が大きければ大きいほど、神様に頼ることが難しくなるのです。しかし神様を見失うと信仰も失いかねません。
 そして、人に頼り過ぎる信仰も不安定なものになるのです。私たち信仰者は、いかなる状況にあっても上におられるお方を見上げましょう(詩篇62篇6—8節)。
 最後は、モーセは神様に従ったにも関わらず、非常に困惑してしまったのです(22、23節。
 パロとの交渉の結果は非常にイスラエルの民にとって不利益なものとなり、さらに民はモーセとアロンを非難したのです。
 物事がうまく行っている間はいいのですが、ひとたび状況が悪くなって来ると、信仰者は2つの反応をすると言われています。
 1つはイスラエルの民のように不平、不満を言うことです。もう一つは神に祈ることです。  苦境に立ったモーセは自分の気持ちを神様にぶっつけたのです。
 リーダーというのは、孤独や不安との戦いは避けられないのです。
 また、リーダーの気持ちは、リーダーになった者でしか理解できないのです。
 しかしモーセには唯一の理解者であられる主なる神様がおられるのです。
モーセは主のもとに戻り、そして申し上げた。」22節
 私たちも受け入れがたい困難な状況において、あれこれと悩み、落ち込み、心煩わすことが多いものです。しかしモーセのように神のもとに戻り、神に伺いましょう!
 神様はすべての問題の答えを持っておられるお方です。たとえ現状はいかに厳しいとしても
「今にあなたに分かる(Now you will see)。」のです(6章1節)