「人知を超えた神様のアイデア」 出エジプト記3章15−4章17節 2015 2月22日(日)

 『人知を超えた神様のアイデア』 2015.2.22
       出エジプト記3章15−4章17節
 イエスの弟子たちがアジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたのでフルギヤとガラテヤ地方を通った。さらにパウロは幻によってマケドニヤに行きました。神様はアジアではなくヨーロッパ伝道へと導かれたのです(使徒16章6—9節)。
 このように神様は、時には私たちの行動をコントロール(支配)されて、神様ご自身が願っておられる方向へと導かれることもあるのですが、どちらかと言えば、アジャスト(調整)、あるいはサポート(援助)をしてくださることの方が多いのではないかと思われます。
 というのは、この聖書には、神様は良き助言者(イザヤ書9章6節)、あるいは助け主(ヨハネ14章16節)、仲介者(テモテ第12章5節)、相談相手(詩篇119篇24節)、あるいは教師(ヨブ記36章22節)として紹介されているからです。
 さて、大国エジプトの奴隷となっておよそ400年の歳月が経っている中で、苦役のために、助けを求めていたイスラエルの民のために、主なる神様はエジプト脱出のための指導者としてモーセを選ばれたのです。
 もちろん、そのために長い年月による準備をされておられたのですが、いよいよその時が来たのです。そして、神様は当時200万人以上いたとも思われるイスラエル人の解放のためのアイデアモーセに語られたのです。
 どのようなアイデアでしょうか。それは、人間的には考えられない方法であったのです。事実、このアイデアを神様から聞いたモーセは、躊躇し、尻込みしているのです。
 それは4章1節から17節において見ることができるのです。
 第1のアイデアは、エジプトにいるイスラエルの長老たちを集めて、主であるわたしがイスラエルの民を救い出すということを伝えることでした(15-17節)。
 モーセは40年前に、同胞がエジプト人に打たれている現場を見て、そのエジプト人を殺めました。その結果モーセはエジプトからミデヤンの地に逃れたのです。
 しかしながら、モーセは40年前の忌まわしい出来事を決して忘れることはなかったはずです。彼の軽はずみな愚かな行動は、同胞の民の信頼をも裏切ったのです。
 しかもモーセの裏切り行為によって、パロ王はイスラエルの民をさらに苦しめたことでしょう。そのような彼が同胞である長老たちの前に行くというのは内心はかなり躊躇したことでしょう、
 モーセが殺人犯したという心の傷は、決していやされることはないのです。また殺された人の周辺の人々は、恨みや憎しみを持ち続けていたと思われます。
 モーセは、罪の清算ができていなかったゆえに、なおのことイスラエル人の前に出ることに恐れ、躊躇、戸惑いがあったはずであります。 
 モーセの経験は、私たち罪人が光であられ、聖なるお方である神様の前に出ることの恐れや戸惑いと同じではないでしょうか。
 そのようなモーセに対して神様は、長老たちのところに行くようにと命じられたのです。過去において愚かな行為をしてしまったモーセではありますが、神様はそのような者を指導者として用いようとされているのです(第一コリント1章26-31節)。
 神様が、人を殺してしまって心の重荷を背負い続けているモーセをリーダーとして用いられるのはなぜでしょうか。それは、モーセは40年間その罪のために心を痛めただけでなく、また悔いただけでなく、悔い改めたからではないでしょうか。というのは、神様はモーセの心の中をすべてご存知だからです。
 確かにモーセはだれよりも強い正義感ゆえに、行き過ぎた行動を取ってしまったと思われます。でも神様はそのだれよりも強い正義感を必要とされたのです。
 エジプトで受けた高い教育や肉体の訓練を手にして過信していたモーセは、遺恨を残す事件によって自らの弱さを学んだことでしょう。高い教養、鍛えられた肉体だけでは、指導者になることは難しいのです。
 しかし神様はモーセを40年間もの間ミデヤンの地において、指導者となるための必要な訓練を与えておられたのです。それは、イスラエルの民がエジプトからの脱出作戦のための準備期間であり、必要な訓練の時でもあったのです。
 さて、私のような者が行っても民は耳を傾けてくれないと変な確信と自信を持っていたモーセに対して、神様はモーセが40年もの間使い慣れた杖を用いられて不思議なしるしをなされたのです(2-9節)。
 弱気となり、躊躇していたモーセに対して、神様は不思議なしるしをなされて、モーセを励まされたのです。
 確かに、多くの人々はみことばに耳を傾けていただけないために、私たちは神様のこと人々に伝える時、尻込みしたり、弱気になったり、躊躇しやすい者であります。
 今日の私たちは、主のみことばの力に頼リましょう。そして機会があれば、みことば(福音)を語りたいものであります。モーセとともにおられた主が、私たちとともに働いてくださり、助けてくださるのです。
『恐れるな、わたしはあなたとともにいる。』
(イザヤ41章10節、ルカ12章11,12節)
 次に神様の第2のアイデアとは、長老たちと一緒にエジプトの王のところに行って、イスラエルの民が荒野でいけにえの儀式をする許可を欲しいということを伝えることでした(3章17-18節)。
 モーセはエジプトの王の息子として育てられたのです。その彼がエジプト人を打ったというのはなんという裏切り行為でしょうか。
 事実パロ王は、モーセを殺そうとして捜し求めたのです。40年の歳月が流れたとはいえ、モーセの裏切り行為は、当然ながら次の王にも伝えられていく反逆事件であったのです。
 ですからモーセにとって王のところに行くというのは、イスラエルの民の前に出るよりも何十倍もの恐れと不安があったはずです。そのようなモーセの内心を十分理解しておられた神様は、モーセに対して杖を用いて、不思議なしるしを見せられてモーセを力づけられたことをさきほど見ましたが、
 それでもなおモーセは、私はくちべたですと言い張り、指導者となることを辞退しょうとしたのです。
 神様はモーセが色々と弁解や言い逃れをすることはご存知であったはずです。しかし愛なる神様は、躊躇しているモーセに対して忍耐深く対応されているのです(11、12節)。
 それでもモーセは他の人を指名してくださいと逃れようとするモーセに対して、神様はついに怒られたのです。もっとも神様の怒りは正当なものであり、いかに怒りを持たれても、決して感情的に取り乱すことなく、モーセに必要な説得を続けられているのです。
 モーセがどれほど口下手であったかは定かではありません。ただ言い逃れのための詭弁であったかのかも知れません。
 確かにミデアンの山地での羊飼いなら雄弁である必要もなかったかも知れません。
 よく耳にすることですが、流暢に話している人が実は昔は口下手でしたということを言われるのです。明石家さんまさんは、小さい時から雄弁家の片鱗があったようですが、口下手は悪いということではないのです。いくら雄弁であっても、その人のことばに真実や、思いやりや、やさしさを感じ取れないなら真の雄弁家とは言えないのです。
 私の父は実に口下手でした。それでも商売をしていたというのは不思議でした。その代わりに母はなかなかなかの商売上手でした。
 でも私は、母よりも父のほうが真実味があるように感じておりました。たとえば、パンク修理をしたときに、どこも穴があいていない時に、父はお客さんにパンクしていませんでしたよと言って少しだけお金を貰います。それを聞いた母は、あんたは馬鹿正直やな、難儀したんやからもっとお金をもろたらええのにと、よくつぶやいていました。
 今でも思うことは、家の商売が成り立つためには計算高い商売上手な母、口下手だけど正直で、技術も持っていた父も必要だったということです。
 さて、神様は尻込みするモーセに、兄のアロンがあなたを助けるようにするからと励まされたのです。
 これらから教えられることは、それぞれ神様から与えられた賜物が用いられ、生かされることによって、お互いの欠けやあるいは弱さを補い合い、互いに助け合うことによって、主の奉仕が祝福され、そして主の教会が建て上げられていくということであります(参照:第一コリント12章20-27節)。
 第3のアイデアは、エジプト脱出の時にはエジプト人の財宝を持って出るようにという命令でした(3章21,22節)。
 この神様のアイデアは、人間的には考えられない方法であり、エジプトを脱出するだけでも命がけなのに、ましてエジプトの財宝を剥ぎ取るというのはあまりにも無謀ではないかとモーセは考えたのではないでしょうか。
 この第3の方法はまさに人知を超えた神様の方法(アイデア)のように思われます。
『わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ――天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。』 (イザヤ55章8節)
 佐藤陽二著注解書「出エジプト記」によりますと、21節ではエジプトがこの民に好意を持つようにする。と書かれているのに、22節では、エジプトからはぎ取らなければならないと書かれていることの矛盾の解決として、はぎ取るはへブル語ではナーツアルで、これはもともと「救い出す」という意味があり、「エジプトを救い出す」と訳すべきであるとB・ジェイコブは主張しているということであります。つまり、エジプト人の名を明らかにし、その人間性を立証しなさいというのである。したがって、パロはあのように残酷であり、非道であったが、エジプトの民衆は人間愛にあふれていたことを立証しなさい。という意味となるのです。真意は不明であったとしても、神様が言われたことに従うことは、最善の選択なのです。尻込み、躊躇、不安、そして恐れに包まれていたモーセではありましたが、神様に助けられながらもすばらしいリーダーとなって行ったのです(ヨシュア記1章9節)。
 私たちは信仰生活において恐れ、不安、迷い、戸惑いの中で、神様に従うことに躊躇することはないでしょうか。
 しかし、そのような時であっても、まず神様のおことばに従うことが、神様に喜ばれる信仰なのです。それは恐れつつ、躊躇しつつ、尻込みしながらも、神様の受け入れがたいアイデアに従ったモーセから学ぶことが出来るのです。