「従う者を守られる神様」出エジプト記9章1−35節 2015年4月12日(日)

  『従う者を守られる神』 2015.4/12
          出エジプト記9章1−35節
 「苦しい(困った)時の神頼み」とよく使われることわざです。同じようなことわざが英語にもあります。「The danger past and God forgotten」訳すと「危険が過ぎ去ると神は忘れられる。」
  これは、まさしくパロ王の態度であります。パロ王は、自分の都合で心がころころ変わってしまう優柔不断であるというよりも、実に身勝手で、ご都合主義で、神様を恐れない傲慢で、強情な人物であります。
 エジプトの王であるというのは、当時の世界では最高峰の地位を持つ身分であったと思われます。ところがパロ王は優れた権威を保持していたのではなく、独裁的な権力保持者であったのです。
 往々にして人は高い身分や地位、あるいはだれよりも大きな権力を手にして、良き指導者として君臨するというのは実に難しいことなのです。
 過去の歴史を見るなら、終生良い権力者であった、あるいは素晴らしい指導者であったという事例はごく稀ではなかったかと思われるのです。
 人の上に立つ多くの指導者は、神様よりも自分が偉いと思ってしまうのです。神様さえも自分の都合で動かせると大きな勘違いをするのです。
 そして、何より神様よりも自分が偉いと思っている指導者を持った民衆は、常に不安がつきまとい、指導者のわがままに振り回されるのです。
 まさにパロ王の支配下に置かれていたエジプトの民衆や、王を取り巻く側近の者も、王のわがままに振り回される人生を余儀なくされていたことでしょう。
 しかもそのような不条理な権力による支配によって奴隷となっていたイスラエルの民は、さらなる犠牲者でもあったのです。このように民衆の生活は、指導者の良し悪しによって左右されるといっても過言ではないです。
 ですから聖書は勧めているのです。
 第1は、権威者(支配者・独裁者)のために祈ることを勧めているのです。
 聖書は次のように教えているのです。それはパウロのみことばです。パウロはクリスチャン達に次のことを勧めているのです。
 『そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安な静かな一生を過ごすためです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前においてよいことであり、喜ばれることなのです。』 (テモテ第一2章1−3節)
 では、ここでの王とすべての高い地位にある人たちのために、願い、祈り、とりなし、感謝をささげられるようにしなさいとはどういう意味でしょうか。
 まず❶願いとは、デーシスギリシャ語で、それは要求と訳され、根底には欠乏感という概念があります。つまり祈りは欠乏感からスタートするのです。
 次に❷祈りとは、プロスエーケーギで、それは神のみに使われることばであります。ですから神様だけしか、答えられない欠乏があり、神だけしか与えられない力があり、神だけしか与えることのできない赦しがあるのです。つまり神にしか答えられない祈りや願いがあるのです。
 そのようなものを人間に求めたり、あるいは人間の手で作られたものに求めることは的外れな祈りなのです。
❸3つめのとりなしとは、エントエウクシスギで、これは哀願と訳されるものです。会うという動詞の意味から、やがて人と親密な会話を持つという意味に、さらには王の御前に出て何らかの請願をするという意味になったようです。
 王の王である神の前に哀願できる権利が与えられているのがクリスチャンであるということです。
 ❹最後はエウカリスティアギで、まさに感謝そのものであります。つまり感謝は大切な祈りの一部であるということです。
 これらの❶〜❹祈りの思いを持って、当時のクリスチャンたちは、パウロの勧めによって為政者のために熱心に祈っていたのです。
 迫害時代において、当時の教会は地上の王国を統治する権威を持つ者のために祈ることを、常にみずからゆだねられた義務であるとみなし、教会は迫害する者たちでさえ、恵みの座へともたらしたのである。
 『われわれは支配者たちのために、世界の情勢のために、万物の平和のために、終末が延期されるために祈る』テルトゥリアヌス(教父・キリスト教神学者、160年から222年ごろ?)(参考:バークレー注解)
 さて、話をモーセの時代に戻します。
  第2は、神様は愛するご自分の民を守られたのです。
 ご自分の民とは、言うまでもなくイスラエル民族であります。イスラエル民族は神に選ばれた選民であります。それはこの民が他のだれよりも優れていたからではなく、この民が他のだれよりも神様に従っていたらではなく、むしろこの民はかたくなで、不信仰で、神様をすぐに忘れるような民であった。
 しかし神様はアブラハムから出る子孫を祝福すると約束され、その約束は実に今もなお生きているのです。
 ところが皆さんも良くご存知のように、神様が彼らに約束された地はカナン(今日のパレスチナ)でしたが、ヤコブの家族は飢饉のためにエジプトに居住地を移したのです。
 一時的な居住地であったにもかかわらずヤコブの子孫はそのままエジプトに住みついたのです。しかし神様は約430年間奴隷になることを警告しておられたのですが、その通りになり、神様の警告通りにエジプトの奴隷となり、苦役に苦しむ中で、彼らは神に助けを求めたのです。
 そこで神様は、モーセをエジプトから解放するためにお指導者として選らばれたのです。
 神の選民でありながら、彼らはエジプトの地で430年間も苦しみました。それでもなお神様はイスラエルの民を捨てることなく救われたのです。
 ようやくエジプトを脱出したにもかかわらず、彼らは神様にしばしば反抗し、不信仰になり、偶像まで造るといった大罪を犯し神様を大いに困らせたのです。
 ではその後の歴史においてイスラエルの民は、神様に従う模範的な民となりえたでしょうか。答えはノーです。
 人として来られた神の御子キリストを拒み十字架にまで付けてしまいました。
 その後エルサレムはローマ軍によって破壊され(AD70年)、そしてイスラエル民族の離散の歴史が始まりました。それから1878年後の1948年にイスラエル共和国が再建されたのです。
 今日もなお彼らはイエス・キリストを受け入れません。しかしやがて終わりの時代には大いなる救いがイスラエルのために起こることが預言されているのです。
 このように、この民は決して神様に選ばれる資格のないものと言えるでしょう。しかし神様がアブラハムを通して約束されたことを反古とされることは決してないのです。
 『主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。』 (申命記31章8節)
 『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』 (へブル書13章5節)  
 イスラエルの民がいかなる民にかかわらず、神様の口から出たことばが覆ることは決してないのです。
 『私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼(キリスト)にはご自身を否むことができないからである。』(第二テモテ2章13節)
 それゆえに主の災いは、エジプトだけに降りかかり、イスラエルの居住地は主の災い(激しい疫病・激しい雹)から守られたのです(9章4−6、26節)。
 さらに、神様のことばに聞き従ったエジプトの民を守られたのです。
 第3は、神のことばに従ったエジプトの民をも守られたのです。
 20節に注目しましょう。『パロの家臣のうちで主のことばを恐れた者は、しもべたちと家畜を家に非難させた。』 結語はないのですが、恐らく非難させたエジプトの民たちは災難から守られたはずです。神様には分け隔てがなく、公平なお方であります。パロの強情さによってエジプト全土が恐怖にさらされていたのです。
 強情さやかたくなさは神様の祝福を失うばかりか、神の救いを逃してしまう厄介なものです。それは神様の憐れみ、恵み、慈しみ、赦し、そして素晴らしい神様の愛に心を閉じしてしまうものです。
 それでも神様はそのような者を忍耐してくださるのです。パロ王がそのいい例です。これまでの主からの災いによって人々の生命を脅かすものはなかったのです。蛙、虻、蚋、家畜の疫病、しかし激しい雹は生命を脅かすものとなりました。
 彼は難を逃れるたびに心は翻り、モーセと神様に逆らうということを何度も繰り返したのです。ついには最も恐ろしい長子のさばきとなって行くのですが、そのような最悪の結果を招いた張本人はパロ王でした。 
 さて今日の私たちの時代は聖書から見れば終わりの時代です。主の再臨が刻々と近づいて来ているのではないでしょうか。
 指導者が神様を恐れ、聞き従うならその配下にある人々は幸いです。しかし神を恐れず、自分を神とする指導者に支配されるならこの世界は終わりを迎えることでしょう。
 エジプトにもたらされた災いは、奴隷であったご自身の民を救うためでした。そしてやがて来る大患難時代は、イスラエルの回心の時であり、また異邦人の救いの時であり、クリスチャンにとっては信仰が試され、確かなものとされる試練の時です。しかし恐れる必要はないのです。
 私たちも神様のみことばに聞き従うなら、いかなる状況にあっても出エジプトの出来事と同じように守られるのです。
 そして主は世界をさばき、まことの正義をこの世界にもたらすために再臨されるのです。  忍耐しつつ主の約束を待ち望みましょう!