『わたしが主であることを知るために」出エジプトき10章1−29節  2015年4月26日(日)

  『わたしが主であることを知るために』
出エジプト記10章1−29節 15年4/26  
 10章には、8番目の災いであるイナゴ(いわゆる殿様バッタ)の大群と9番目の暗やみが覆い尽くすという災いが記されています。そして最後(11,12章)の災いである10番目は初子の死であります。
 このように、パロ王が頑なになればなるほど、主からの災いがより深刻化して行ったのです。 『のどもと過ぎれば熱さ忘れる』とは、まさにパロ王の態度そのものです。
 襲ってきた災いがひとたび過ぎてしまうとすぐさま心が翻り、モーセとの約束を反故にしてしまうのです。それを実に9回も繰り返してきたのです。
 彼は、神の奇跡を何度も見ていながらも、素直に神様の命令に聞き従えないのです。人間的な見方をするなら、最初から10番目の災いを下されたほうが早く解放したのではないかと思うほどです。
 しかし、神様はエジプトの民を滅ぼすことを目的で災いを下されているのではないのです。彼らの命を犠牲にしてまでご自分の民をエジプトの奴隷から救い出そうとは思わられなかったはずです。
 恐ろしいことですが、人の命に関わる災いが下されなければならないようになった要因のすべてはパロ王の強情さにあったのです。
 ですから、聖書に書かれている神様は、人に災いを下される慈悲のない、憐れみのない恐ろしいお方であると結論付けるのは早計であり、それは聖書の不理解から来るものであると言えるでしょう。
 さて、パロ王の頑なさによって、エジプト全土にもたらされた10の災いは神からのしるしであることを明確にし、さらに聖書の記録として後世に残すものとなったのです。
 それはちょうど、主イエス様が十字架で死なれた後に、遺体を盗まれては大変だと考えていた当時の役人たちや宗教家たちが、用意周到に墓を完全に封印し、しかも徹夜の見張りにローマの番兵をふたりもつけたこと、つまりより厳重にしたことが、かえってキリストの復活の事実を確かなものにしたのと同じなのです。
 それは1節の『わたしは彼とその家臣たちを強情にした。それは、わたしがわたしのこれらのしるしを彼らの中に、行うためであり』というみことばの意味を正しく理解するための助けとなるのです。
 『主よ。あなたのみわざは、なんと大きいことでしょう。あなたの御計らいは、いとも深いのです。』(詩篇92篇5節)
 私たちは、神様の深い計らいがあることを知らないで何気なく生活を送っていることが案外多いかも知れません。
 ⚫先週香港からの帰り、Y先生は搭乗手続きの際、25番ゲートから搭乗してくださいと聞いて、2時間前から25番ゲートで搭乗を待っていました。しかし、25番ゲートの掲示板に私たちが乗る飛行機のナンバーが出てないのです。2時間も前ということでナンバーが出ないと思ったのです。しかし、私はフライトナンバーが出ないことにこだわり続け、他のナンバーを見に行ったり、各ゲートで受付している方に聞いたりしたのですが、とにかく電光掲示板を見てくださいということでした。確かに25番ゲートには関西空港行きと出るのですが、やはり気になり、ついに1番ゲートから確認したのです。と言ってもたしか80番ゲートもあったと思いますが、とにかく1番ゲートから見に行きますと、なんとそこに0時35分発MM068関西空港の文字を見つけたのです。つまり1−20、21から40、41から80ゲートの電光掲示板がそれぞれあったのです。ですから25番ゲートを見ても、私たちが乗るMM068は出てこないのです。私たちが待つべきゲートは1番ゲートでした。搭乗する50分前でした。しかも1番ゲートに行きますと、受付の方が私を見つけて、「Your passport?」!私はパスポートを落としていたことも気づかないでてんてこ舞いしていたのです。ゲートを間違っていたこと以上に、海外でパスポートをなくすという大変なトラブルになるところでした。Y先生と一緒に神様に感謝したのです!
 私たちが神様より勝ることは不可能であることを認めなければならないのです。
 神を恐れ、へりくだり、神に信頼して従うことが最も安全で、しかも神様に守られるという最善の選択肢ではないでしょうか。  
 次は2節の『わたしが、エジプトに対して力を働かせたあのことを、また、わたしが彼らの中で行ったしるしを、あなたがたの息子や孫に語って聞かせるためであり』とあるように、神様がエジプトでなされた数々のみわざを見た者が、イスラエルの息子や孫に語り継ぐためのものなのです。
 いかなる奇跡も長い歴史の経過の中で忘れ去られ、風化して行くものであります。あるいは、単なる神話(空想話)として片付けられていくのです。
 確かにイスラエルの民は今日もなお、ヤーウエなる神の偉大さを子孫に語り継いで来ていることは事実であります。何よりもイスラエル人にとってモーセは偉大なる先祖の一人であります。ですから、モーセの時代に行われた神の奇跡は、イスラエル人にとっては誇りであり、また信仰継承の動機付けでもあるかと思うのです。
 悲しいことにはイエス様時代において、当時の宗教家たちはイエス様のなされたしるしは認めざるを得なかったのですが、ご自身が神の子であると宣言されたことで、彼らは(特に宗教学者たち)激怒し、神への冒涜だと叫び、さらに自分たちの行動を非難されたことに不快感を抱き、強いねたみと憎しみをもたらしてしまった結果、神の御子を十字架につけて殺してしまったのです。
 彼らもまたパロ王と同じ頑なさという罪から来る負の連鎖があるのです。
 このように人間の強情さ、かたくなさこそキリストを十字架につけるものなのです。
 そこに、すべての人間が持っている罪の本質の悲劇を見る思いです。
 さて私たちクリスチャンも信仰の継承は大切な使命ではないかと思います。
 では私たちは子どもたちや、孫たちに何を伝えていけばいいのでしょうか。
 たとえば神様の奇跡を信じるようにと教え聞かせることでしょうか。もちろんそれも大切です。
 それ以上に大切なことがあります。それは神の愛、神の恵み、神の慈しみ、神の真実などの実体験を伝えることがいいのではないでしょうか。
 と言っても、何か奇跡的な証しをしないといけないということではありません。たとえそれが小さなことであっても、神様が私にしてくださったことを語って行くことが大切です。
 もちろんキリストを信じたことによって与えられる素晴らしい神様の恵みを語ることは言うまでもありません。
 たとえ今はまだ信仰を持っていないという子どもたちであっても、あるいは奥様であっても、また両親であっても神様の素晴らしさを語るというのは、私たちクリスチャンに与えられた使命ではないかと思うのです。
 そのようなことさえもできないという難しい状況なら、日々の歩みが信仰のあかしということになるでしょう。
 最後は、2節の後半のみことばです。『わたしが主であることを、あなたがたが知るためである。』
 第1の災いはナイルの川が血に変わり、第2は蛙、第3は蚋、第4は虻、第5は疫病,第6は腫物、第7は雹、第8はいなご、第9は暗やみ、最後は初子の死です。
 エジプトの呪術師たちは第1の災いだけを行うことができただけでした。
 これらは天地万物を創造されたお方のみがなし得る奇跡なのです。
 蛙も私たちの周りに適度に存在していることによって蛙としての役割を果たして人類と共存できるのです。それが異常に群がると人間の生活に支障を来たすのです。蚋も虻も同様です。
 バランスの取れた生き物の棲息ゆえに、その存在価値を見出し、自然の秩序が保たれているのです。
 疫病(ウイルスなどの病原菌)は太古の昔からの人類の戦いであります。過去において多くの命を奪ってきたのです。
 そのことはこれからの時代にも言えることです。しかし疫病との限りない戦いの中において、医学も大きな進歩をもたらして来たことも事実であります。
 疫病だけでなく腫物も人体に非常に深刻な影響を及ぼします。腫物が出来て心身のバランスを保つことは非常に困難になるのです。
 私たちが今住んでいる世界はまだまだ調和のある環境が維持されていると思われます。
 しかしそれが崩れていくと自然環境の破壊が始まっていくのです。
『そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第6日』(創世記1章31節)
 神様は完全なものを造られたのです。もちろん私たち人間も同じです。しかしアダムとエバはサタンの誘惑によって罪を犯したのです。その結果、自然の秩序はすべてではないのですがその多くが失われたのです。
 エデンの園という完全な環境から追い出された場所が私たちの住んでいる世界です。
 それは、神から離れたしまった闇の世界。神から離れてしまい、罪に縛られているのが人間であります。
 ですから、この世界には多くの不調和と不義と不条理と不信があるのです。
 しかし、神を知ることこそが見失われた真理を発見する道であり、そして再創造(復活)の道であり、それは神様への回帰(神様のもとに帰る)であります。
 出エジプトの出来事しかり、今日の世界の様々な出来事を通して『わたしが神であることを知る』ことは、まことの救いを見出す幸いな人であります。
 そしてまことの救いとは、私たちの罪の身代わりとして神の国から来られたイエス・キリストを信じることによって得る罪からの解放と永遠のいのちの付与であります。
 『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』
ヨハネ14章6節)