『黙して神のみわざを見よ!』 出エジプト記12章1−14、29−42節   2015年5月17日(日)

  『黙して神のみわざを見よ!』

  出エジプト記12章1−14、29−42節 2015年5月17日(日)

27年前の伊豆大島三原山噴火で、1万人を超す全島民が島から非難した。その夜、新火口が噴火して町に溶岩が迫る中、住民への避難指示は錯綜し、いつパニックが起こるか分からなかった。しかし延べ51隻の船舶と3機のヘリによる島からの脱出は午後7時に始まり、翌朝6時に完了する。この極限状況下での全島民の落ち着いた行動について当時の町助役は『島の人情、人とのつながりがあったからだ』と説明した。
 37節を見ましょう。壮年の男子が60万人と書かれています。恐らくエジプトを脱出した総人数は、奴隷を含めると200万人近い人々のエジプトからの脱出がどれだけスケールの大きなものであったのかは測り知れない。
 たとえば50人列でその長さは20キロとなります。およそここから生駒山ぐらいになります。荒野ですから脱出することは不可能ではない人数かと思われますが、その夜の脱出劇は空前(絶後)の出来事となったことでしょう。そしてエジプトの民はどのような思いでその光景を見たことでしょうか。
 イスラエルの民がエジプトで奴隷となって430年。イスラエル人にとっては待ちに待った記念すべき日となったのです。
 まさに今宵こそ、イスラエルの民は黙して大いなる神様のみわざを見る時であり、大いなる神様を目の当たりに体験する時でした。
 けさは、エジプト脱出劇における神様のみわざからいくつかのことを29節から42節を中心に見て行きます。
 これらの節におけるキーワードは徹底という言葉ではないかと思います。
 まず29−33節にあるのは、神のさばきの徹底です。そして34節から42節では、神の守りの徹底であります。
 第1は、神のさばきの徹底です。
          (29−33節)
 エジプトにいるすべての初子が死ぬという恐ろしいさばきは、パロのかたくなな心が招いたものです。神様は10の災いをエジプトにもたらされたのですが、常に前もって警告をされておられたにもかかわらず、パロ王は一時的には聞き従い、ひとたび災いが通り過ぎると再び反抗的な態度を繰り返したのです。
 明らかに神様の災いであることを体験しながら、神を恐れない、悔い改めない、信じることができないパロ王、そして王の側近たち。一体何が彼らをそのような不信仰な者とさせているのでしょうか。
 ❶つには(29、30節)、偶像の神による惑わしであります。ひとたび偶像を造り、それに仕えてしまうと、それに支配されてしまいます。
 偶像の神が人間よりも上に立ってしまうのです。そうなると、やすやすとその神を処分するというわけにいかなくなります。
 人間の勝手な都合で造られた神が、やがてはその神に心を捉われてしまうのです。
 まことの神への恐れや信仰が生まれないのは、自分たちの間違った神信仰を心から改めることができない強情さや利己心が王たちにあったからではないでしょうか。
 このように強情さや利己心は罪です。その罪こそまことの神様を知ること(信じること)を妨げているのです。ですから人が素直に罪を悔い改めるなら神を知る(心で見る)ことができるのです。
 ❷つ目は(31−33節)、エジプトの民の不信仰です。神を恐れず、神への謙遜を失われるなら、神様に対してますます心が閉ざされてしまいます。
 彼らがそのようになった要因は、エジプトの物質的な繁栄や享楽主義が神を知ることを盲目にさせていたのではないでしょうか。
 そしてエジプト大国への自負心や誇りもまた大いなる神を恐れることの妨げとなっていたのではないでしょうか。
 いかなる奇跡やしるしを見たとしても、その人の心の王座に自分が居座る限り受け入れることは難しいことは、イエス様の時代の宗教家たちの態度と合い共通するところであります。
 イエス様の奇跡を目の前で見ながらも、彼らは心を閉ざし、反抗的になり、嫉妬と憎しみによってイエス様を十字架につけてしまったのです。
 自負心、自尊心、自己中心の裏に潜むのは、高慢、おごり、偽善といった罪なのです。それこそ、神の国からへりくだって人のお姿をとってこの世界に来られたイエス・キリストを神の御子として受け入れることを困難にしてしまうものであります。
 さて次は第2のことについて見て行きましょう。それは神の救いと守りの徹底です(34−42節)。
 先ほどは、神様に聞き従わない者に対する神様のさばきの徹底さを見たのですが、この箇所では、神に聞き従う者への徹底した救いと守りを見ることができるのです。
 モーセ申命記11章26−28節で『見よ.私は、今日、あなたがたの前に、祝福とのろいを置く。もし、私が、きょう、あなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令に聞き従うなら、祝福を、もし、あなたがたの神、主の命令に聞き従わず、私が、きょう、あなたがたに命じる道から離れ、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行くなら、のろいを与える。』と語っている。
 神様の祝福をいただくために、難しい神学を知らなくても、あるいは聖書の知識が十分でなくても、またすばらしい祈りができないとしても、また善人でないとしても、神の命令に聞き従うなら祝福されるとモーセは語っているのです。
 エジプトを脱出する夜に、神様はイスラエルの家々の二本の門柱と家門に傷のない小羊か山羊の血を塗るように命じられたのです(6、7節)。  
 彼らはなぜそのようなことをする理由は分かりませんでした。でも神様が命じられる通りにした結果、恐ろしい死の災いから守られたのです(13節:キリストが十字架で流された血によって、信じる者の罪を見過ごされることのひな形)。
 イスラエルの民が神様のすべてを知っていたから神様に従うことができたのではなく、彼らはエジプトで不思議なみわざを現された神様ご自身を信頼したのです。
『民よ。どんなときにも、神様に信頼せよ。神は、われらの避けどころである。』
          (詩篇62編8節)
 とはいえ、私たちは人生の中で、神様に祈っても、自分の願い通りではなく、むしろ状況が悪くなっているのではと思うこともあります。
 しばしば思いがけない試練を経験するものです。従っているのに、どうして祝福されないのか、あるいは悩みや苦しみからどうして解放されないのかと不安になったり、思い煩ったりします。時には不信仰になったりすることはないでしょうか。
 それは神様がその人を愛しておられないからではないのです。無関心だからではないのです。忘れられたからではないのです。神様の愛は決して変わることはないのです。
 まして神様を信じている者をほっておかれるはずはありません。『女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分胎の子を憐れまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。』と約束されているのです(イザヤ書49章15節)。
 そのような時は、多くを語らず、黙して神様のみわざを静かに見る時なのかも分かりません。
 そのように立ち止まることは決して容易なことでないと思います。それでも、真実なる神様を仰ぎ見て信仰生涯を全うする者には、必ず天においてすばらしい報いが用意されているのです。
 現に神様に聞き従った民は、素晴らしい祝福を受けたのです(35、36節)。
 それは奴隷という厳しかった労働への対価であり、やがて幕屋建設のための必要と備えであります。
 聖書注解者は36節を『主は民がエジプトから好感を受けるように取り計られたので、エジプト人は彼らの願いを聞き入れた.そしてエジプト人イスラエルの民に憎悪感や復讐心(これらを持っていたいのはパロ王や家臣だけ)を持たなかった。』と解説しています。
 ですから、見方を変えればイスラエルの民は、エジプトの民に祝福されてエジプトを脱出したと言えるのです。
 それはまさに徹底した神様の守りではないでしょうか。主は厳かに脱出の夜、寝ずの番をされて、神に聞き従うすべての民を守られたのです。
 ハドソンテーラー著『どんな人の生涯にも、熱気を帯びた語り合いをやめ、ため息をつくことをせず、荒野の叫びをあげることをやめて、ただ黙っていなければならない時がある。主権者の御心のままに、じっと静まるべき時がある。』
 イスラエルの民は、エジプト脱出の夜、初子の死の災いの恐ろしさの只中にあって、主の命令に聞き従って、黙して災いが通り過ぎるのをひたすら待ち望んだのです。
「私の魂は黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。」
     (詩篇62篇、1節、5節)