「神様が聞いてくださる祈り」−ハンナの祈りに学ぶ− 第1サムエル記1章1−20節  2015年5月10日(日)母の日礼拝

    「神様が聞いてくださる祈り」
       −ハンナの祈りに学ぶ− 
        第1サムエル記1章1−20節
    2015年5月10日(日)母の日礼拝
 昨年のクリスマスにいただいた今年のカレンダーの標語「絶えず祈りなさい」は、第1テサロニケ5章17節のみことばです。英語訳では「Never stop praying」です。「祈るのを決してやめないでください」となります。   あるいは、祈り続けるようにと解釈してもいいかと思います。
 ところで、私たちクリスチャンの祈りのスタイルには、1日のうちどこかで時間を取って習慣的に祈るというものがあれば、たとえ、そのように祈れないとしても、できる限り祈るようにしている。あるいは何か必要に迫られた時に祈るというものがあります。
 もちろん祈りの姿勢としては、習慣的に祈ることが一番いいかと思います。
 S・D・ゴードンという人は「今日、この地上で、祈る人々ほど偉大な人々はいない。しかし、私の祈りの理解とは、祈りについて語る人々や、祈りについて説明できる人々ではなく、時間をさいて祈る人々のことである。祈るためには、他の何かを犠牲にしなければならない。」と言っています。
 さて、けさはどのように祈っているのかという評価ではなく、神様はどのような祈りに心を動かされるのかをハンナの祈りから学びたいと思います。
 まず始めにハンナの背景について触れておきます。
 夫エルカナ(神が所有されたという意味)にはふたりの妻、ペニンナ(サンゴ、真珠という意味)とハンナ(慈しみ・恵みという意味)がいました。  
 夫エルカナは、敬虔(3節)、愛情深い(5節)、優しい(8節)人柄であったと思われます。ところがペニンナはハンナを憎んでいたようであります。その理由は明らかではないのですが、エルカナはペニンナよりもハンナを愛していたからという推測も可能であります(6節)。
 どちらにしても、ペニンナは子宝に恵まれていたが、神様はハンナの胎を閉じておられたのです。人間的に見れば、ハンナの方がペニンナよりも心優しようなのに、なぜ子供が与えられないのかと疑問を呈するところでありますが、そのようなことは今日の私たちも経験する事象であります。    
 なぜ神様はハンナの胎を閉じられたのか。それは、なぜ障害を持って生まれて来るのかという問いと共通するところがあるのではないでしょうか。
 私たち人間は、神様がなされることのすべてを知り尽くせないのです(or許されていない)。というのは、すべてを知ることが必ずしも人間にとって良いとは限らないからです。
 当時一夫多妻は許容されていたようですが、もしエルカナの妻がハンナだけなら、ハンナはそれほど悩まなかったのかも分かりません。しかし、人は誰かと比較し始めると、自分にないものが人にあるときに妬みが起こり、逆に人にないものが自分にあると傲慢になりやすいです。
 まさにペニンナとハンナは、夫にどう思われているかに一喜一憂するという関係にあったのではないでしょうか。
 そのような状況においてハンナは耐えられないつらい気持ちのまま、祭司エリのところに祈りに行ったのです。
 そのハンナの祈りは、精神的に追い詰められた状況の中での祈りであり、思い悩み苦しみの中での祈りだったのです。
 では神様はハンナのどのような祈りに心を動かされたのでしょうか。
 まず第1は、ハンナの祈りは、つぶやきではなく真実な心の叫びであったのです(10節)。
 つぶやきは神様への不平不満であり、(心の)叫びは、私は無力(無価値)ですという真実な告白です。
 私は信仰を持って間もない頃の祈りは、祈っているというよりもつぶやきでした。こんなつらい思いをするなら、なぜ前の会社を辞めるようなことになったのですか?神様のためにしている仕事なのに、なぜこんなにしんどいのですか?神様を信じているのに、以前よりも(信仰持つ前よりも)どんどん状況が悪くなっていると。
 まるでエジプトから脱出して荒野でさまようイスラエルの民のように、祈っているつもりがつぶやいていたことが多かったのです。
 それでも神様は、祈りにならないような祈りであっても、ひとつひとつの祈りの課題を解決へと導いてくださったのです。
 うまくいかない事柄を神様や人に責任転嫁し、自分の無力さや失敗を認めないまま神様の前に出るなら、祈りはつぶやきとなるのです。それは神様に全く信頼した祈りとはいえないのです。
 イエス様がエリコを通り過ぎる時に、ふたりの盲人は声を張り上げて,「主よ。私たちを憐れんでください。ダビデの子よ」と叫びました。そのとき弟子たちは彼らを黙らせようとしたのですが、イエス様は彼らに近づかれてふたりの目を開けられたのです。
 彼らが人目をはばからずに大声で叫んだのは、イエス様にお会いするチャンスは今しかないと思ったからです。何よりも彼らには、イエス様なら必ず癒してくださるという信仰があったからです。
 ハンナの悩みの解決も、胎を閉ざすことができになるお方にすがるほかなかったのです。
 神様の前に明け渡した、つまり神様にしか解決方法がない、自己の無力さ、無価値さの前にささげられたハンナの祈りは、神様の心を動かしたのです。
 スポルジョンの言葉です。「祈りは私たちの無価値や無力さを教えます。もし神様が,私たちの祈りなしに恵みを与えられるなら、私たちは自らの貧しさに気づくことはないでしょう。」
第2は、ハンナは神様の御心にかなう祈りをささげたのです(11節)。
 まるで神様と取引きをしているかのような祈りであります。では私たちも、ハンナのような祈りをしても良いのでしょうか。つまり「神様。私はこのようにしますから、私の祈り願いをかなえてください」という祈りです。
 聖歌556番「祈りすれど手答えなく」の歌詞の中に、「ながもーてるものを主の手にーことごーとくささげしー条件付けず降伏せばーかちうべし勝利を」とあるのですが、ハンナの祈りは条件付けの祈りでした。しかしその条件は、神様に喜ばれるものであったのです。利己的な条件付けはあまり歓迎されないでしょう。しかしハンナのように心の動機が良いものであるなら、神様は喜んで受け入れてくださるのです(第一ヨハネ5章14節)。もし男の子を授かったら神様のためにおささげしますという約束(犠牲)の伴う祈りだったのです。
 ハンナは、当時祭司エリのふたりの息子たちが不信仰で、エリの心を深く悩ましていることを知っていたのでしょうか。それは憶測にすぎないのですが、おそらくハンナも、祭司の家族の信仰が堕落していることを知っていて、しかもそのとこに心に留めていたのではないと思われるのです。
 それゆえに、授かった男の子を神様のためにささげると約束したのではと考えるのが自然ではないかと思うのです。
 ハンナは自分の子供が欲しいために祈っていたにもかかわらず、授かった子はささげますと祈ることは、自己矛盾ではなかったのかと思ったりします。
 当時イスラエルの国において、子供を授からない女性は、屈辱的なことで、神様に祝福されていない(呪われている)女性であると見られていたという背景あったのです。
 しかしハンナは子供を授かることによって、私も神様の祝福にあずかる幸せな女性であることを認めて欲しいという願望もあったのかもしれません。
 ハンナはエリカナの深い愛情を受けている以上に、あきらめることなく神様からの祝福を受けたいという霊的な渇きを持っていた女性だったのかも知れません。この世の祝福以上に神様からの祝福を願うことは大切なことです。
 さて私もかつて、こうしますから私の祈りを聞いてくださいと祈ったことが何度かあります。しかも神様はその祈りに答えてくださったのです。しかしその後神様に約束したことを忘れてしまったり、あるいは果たせなかったのです。 
 神様は御心のかなう祈りをしたソロモンを褒められて、人並みはずれた知恵をソロモンに与えられたのです。しかしソロモンの生涯は神様に喜ばれることよりも悲しまれることのほうが多かったのです。
 ハンナのように条件付けで祈りをささげるというのは慎重でなければ、神様を裏切るという悪い結果につながりかねないのです。
 しかし祈りの動機が正しく、神様に喜ばれる御心にかなう祈りは、神様の心を動かし、その祈りは聞かれるのです。
 ハンナは祈りによって、彼女自身の人生を祝福に変え(2章21節:のちにハンナは5人の子供に恵まれた)、信仰の堕落の危機にあった祭司エリの後継者となる器を胎に宿すという大きな祝福を得たのです。 
 当時のイスラエル国家形成に大きく貢献する器となった祭司サムエルは、悩み、悲しみ、苛立ち、嫉妬心、辛い人生を味わっていたか弱い女性のうめきに近い、あきらめない、執拗な祈りによって世に送り出されたのです。