『買い戻された民』   —罪の奴隷からの解放—   15. 6/7(日)   出エジプト記13章1−16節

      『買い戻された民』
  —罪の奴隷からの解放—   15. 6/7(日)
          出エジプト記13章1−16節
 私が高校入学の時だったと記憶しているのですが、役場で戸籍謄本をもらって来てその内容を見た時に、私の所には養子と書いており、弟が長男と書いていたので、母に聞いてみると、「そうなんや」との答えが帰って来たのです。私が4歳の時に父に追い出された母が本当の母と思っていましたが、のちに出て行った母の前に生みの母がいたことを知りました。
 それでも私は兄ということで長男とばかり思っていました。でも母は、私を長男扱いとして育ててくれたと思っています。結婚して間もない頃に別居すると言った時に母は賛成しませんでした。母は私を跡取りにしたかったようです。その気持ちは有り難かったのですが、やはり弟が家を継ぐべきだと私は思っていたのですが、献身によってスムーズに家を出ることができて、弟が跡取りになることができました。
 両親にとっては弟が初子であり、当然戸籍は弟が長男となるのです。血は争えないのです。
 昨年奈良うまいもんという番組で、田原本の雲水堂の松風が紹介されていました。実に400年も続いている老舗です。松風は豊臣秀吉が好んだお菓子だそうです。18代目だそうです。テレビにはご主人と跡取りのご長男の方が出ておられました。
 さらに五条市には700年も続いている奈良野菜だけを使った料理屋の老舗も紹介されていました。出ておられた人は70代目ということです。
 このような家柄になると誰が跡取りになるかは非常に重要なこととなります。
 さて、エジプトの王であるパロの跡取りはやはり長子でした。当然パロは跡取りになる長子を大事に育てていたことでしょう。   
 ところが10番目の災いは、最も高貴な者から最も身分の低い者のすべての初子の死までおよび、しかも家畜にまで及ぶものでした。
 9番目までのさばきは命に関わるものではなかったのです。しかし最後のさばきは王にとってもエジプトの民にとっても非常に恐ろしいものでした。
 それでもパロ王は、奴隷を失いたくなかったためにイスラエルの民を解放しなかったのです。
 パロ王がイスラエルの奴隷を手放すことを惜しんだために、大切な長子を失ったばかりか、その結果エジプトのすべての民の長子の死まで巻き込んでしまったのです。
 パロ王は、自分の欲望に執着しために神様のさばきを招いてしまいました。それは自業自得であり、本当に愚かな行為であります。
 パロ王にとって、イスラエルの民を解放するかしないかは、神様のさばきを逃れるか、あるいは神様のさばきを自分の身に招いてしまうかどうかのテストでありました。
 それとは反対に、神様の祝福をいただくために、自分の持っている大切なものを手放さないといけないというテストもあります。 
 それは、自分が持っているものと、神であられるわたしとどちらが大事なのかという厳しい信仰のテストでもあるのです。
 かつてS先生のメッセージで、ご長男が病気でなくなられた時に、伝道会に出席されていてお子様の最後を見とれなかったことに非常に心を痛められたという証しをされました。
 その話しをお聞きして、当時私も子供がいましたから、本当に胸が詰まる思いでした。
 しかし、自分の子どもを亡くすというのはどれだけ親にとって辛くて悲しいものかは、それを経験した親でないと分かりません。
 S伝先生はその話しの中で、私は天のお父様がひとり子のイエス様を十字架で殺されることを、あるいは自ら私たちの罪の身代わりとして死なれることはどれだけ耐えがたいことであったのか、その気持ちのほんの少しであっても体験することができたのですと言われたのです。  
 先生は、自分の大切な子供を失うというつらい経験によって、父なる神が愛する御子を、人類の罪の身代わりのために与えるというのはどれほどのことであるかを、これまで以上に語ることができる伝道者となられたのです。
 天のお父様は尊い、かけがえのない、大切な御子を私たちの救いのためにおささげくださったのです。
 実は、私たちが神様にささげるという原点がここにあると思うのです。
 たとえばそれは献金であり、奉仕であり、日曜日の聖別であり、主のためにという献身なのです。
 もちろんイエス様を信じて罪が赦されて、神の子どもとされた喜びと感謝に対する応答でもあります。
 しかし何々をしてくださったことへのお返し的なものは、本来は神様にささげるという意味ではないのではないかと思わされるのが、12節で主がモーセに仰せられた『イスラエル人の間で、最初に生まれる初子はすべて、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。』ではないかと思われます。
 ではなぜ神様は、エジプトの初子の死というさばきをくだされたあとに、人であれ家畜であれ、すべての初子をわたしのために聖別せよと言われたのかを考えて見ましょう。
 繰り返すますが、神様がエジプトに下された10番目の災いは初子の命を取られるという恐ろしいさばきでした。
 実はそのさばきはエジプト人だけでなく、イスラエル人やともにいた人々のすべてに及ぶものでした。しかし神はそのさばきがイスラエル人やともにいた人々に及ばないように、イスラエルの家々の二本の門柱とかもいに、傷のない1歳の雄の小羊を殺して、その血を塗ることによって死の災いが通り過ぎるように(パスオーバー)された結果、エジプト人の初子の死とエジプトの家畜の死だけにとどまったのです。
 本来はともに及ぶさばきであったものが、神の保護(あわれみ、恵み、慈しみ)によって守られたのです(救われた)。つまり『あがなわれた』のです。
 イスラエルの初子は神様のあわれみによって命を取り戻したのです。そのことを覚えるために、また忘れることがないように、まず初子を聖別しなさいと命じられたのです。
 神様が買い戻されたものであるから神様のものとしてささげなさいと言うのが2節、12節、15節の意味するところではないでしょうか。
 それはお返しするという行為ではなく、まず神様のためにとっておく(別にする)、つまり聖別するということなのです。 
 月々の献金を聖別献金(月定献金)と言われるのですが、生活費を計算した中から献金するというのではなく、まず神様にささげるという思いが優先され、それを実行に移すことが神様に喜ばれるささげものであると思います。
 もちろん、これらのことはあくまでも聖書の原則であり、強制されてするものではありません。ささげるときは嫌々ながらではなく、自ら喜んでしなさいとパウロは勧めているからです(参照:第二コリント9章6、7節)。 
 それは献金だけでなく、奉仕のために時間をささげる(聖別する)というのも同じなのです。  両者ともに献身なのです。なぜなら私たち自身もイエス・キリストによってあがなわれた(キリストのいのちをもって買い戻された)者だからです。  
 イスラエルの民は、神様のあがないによってエジプトの奴隷から解放されました。それ以来イスラエルの民は今日に至るまで過ぎ越の祭りを欠かすことは決してないのです。それは、「力強い神の御手で、あなたがたを連れ出されたからである」(3、9、14、16節)ことを忘れないためでした。
 そして今日の私たちは、イエス・キリストの罪の身代わりによる十字架のあがないによって罪から解放されたのです。
 そのことを決して忘れることのないように定められて行なうのが聖餐式であります。
 かつてイスラエルの民が奴隷となったのは、彼ら自身が神様の命令に従わなかったことから招いた災いでした。にもかかわらず神様は、彼らの叫びを聞き届けられ、あわれまれ、慈しみによって彼らをあがなわれたのです。それは実に神様の一方的な恵みなのです。
 確かに私たち人間は好き好んで罪人として生まれたくて生まれて来たのではないのです。にもかかわらず生まれながらにして罪人であると定められているのです。
 私はかつて、その結果神のさばきをまぬがれないというのはあまりにも理不尽と思ったこともあります。そのことを神様に訴えたこともあります。
 しかし罪人であるという事実を覆すことはできるないばかりか、完全な行いをして罪人から解放されて、天国に入るというのは不可能なのです。
 ですから罪人は、神様のあがないが必要なのです。そのことを知らない人々に伝えてあげたいという使命はすべてのクリスチャンが持っているのではないでしょうか(証し:CSの先生たちの山本菜々子さん、萌々子さんへの救霊の熱い思い)。
 誰であれ神様の愛を知らない、あるいは神様を無視して神の祝福にあずかることは決してできないのです。もし救いの道がないのなら、罪人として定められてさばかれることを訴えるべきです。
 しかし、おおよそ全世界のことばに訳されている聖書に唯一救われるべき方法が記されているのです。しかも幼い子どもたちにも理解ができるのです。
 かつてイスラエルのためには、小羊の血を二本の門柱とかもいに塗って、恐ろしい死のさばきから逃れたのです。
 そして今日は、イエスを神の御子と信じることによって神様に買い戻されて、罪の奴隷から解放されて、つまり死の呪いから解放されて神の子どもとなり、天国の約束を手にしたのです。
ハレルヤ感謝です!