『荒野の道』—顧みてくださる神様—  出エジプト記13章17—22節   15.6/14

『荒野の道』—顧みてくださる神様—
 出エジプト記13章17—22節      
          15.6/14
 神学校で年1回ほどのメッセージの奉仕があります。メッセージのテーマは与えられているのですが、神学生向けのメッセージはなかなか難しいものです。神学校ではヘブル語やギリシャ語、そして聖書解釈学等結構難しいことを学んでいます。ですから少々アカデミック(学問的、格式的)なメッセージをしないといけないというプレッシャーもありますが、私は敢えて牧師としての体験談を話すようにしています。そしてそれはサクセスストーリではなく、バッドエンドストーリー(失敗談)を話します。その方が聞いている神学生は励まされるようです。
 世の中にはたくさんの成功例、あるいは失敗例があります。そして成功例は聞き耳を立てにくいのですが、失敗例はそうではありません。しかも数々の失敗を通して、あるいは度重なる苦労を通して成功するという話しは人気があるのです。
 まさにイスラエルの民の歴史を見ると一目瞭然、失敗の連続、あるいは苦難の連続の歴史を歩んで来たのです(ゆえに聖書が興味深いものです)。にもかかわらず、神様はイスラエルを顧みられたのです。
 神様は、モーセをリーダーとして立てられ、神様の不思議な力によって大国エジプトから脱出することができたのです。そして200万人以上いたと思われるイスラエルの民(他の民も含む)は荒野に入って行ったのです。けさの聖書箇所がそのところであります。
 さて、けさは神様がイスラエルの民のためにどのようなことを顧みられたのかを見ましょう。
 まず第1は、民の行く末を顧みてくださいました。17節、18節を見ましょう。
 神様は、イスラエルの民をパレスチナへの近道(目的地までおよそ360キロ、12日の道のり)には導かれずに、遠回りである荒野の道(砂漠地帯で1年はかかる道のり?)ヘと民を導かれたのです。
 その理由は17節で明らかにされているのです。ペリシテ人との戦いに巻き込まれないようにするためであり、民が彼らを恐れて再びエジプトに戻ることを避けるためでした。
 近道は12日ほどの道のりで目的地に着くことができます。しかしその道を通るにはイスラエルの民があまりにも長い奴隷生活のために民の戦力や戦意も弱体化していたからです。 
 ところが遠回りはイスラエルの民にとっては、辛いことであり、非常に厳しい道のりではありました。しかし遠回りすることに要する期間は、民は強くなるためであり、奴隷気質(奴隷根性)から自由人気質民族意識の回復)ヘと変えられる大切な時でもあったのです。
 神様は民のために、そこまで先のことを考えておられたのです。
「一寸先は闇」とよく言われるのですが、ある程度の将来予測は立てることはできても、予測通りにはいかないのが現実なのです。ですから将来どうなるかを占ってもらうという人も結構おられるのです。しかしこれもまた当てのならないものであります。もし占いや運勢で将来のことがすべて分かるとするなら、それはそれで大変なのです。たとえば自分がいつ死ぬのかも分かるということになるのです。あるいは、いつ交通事故に遭うということも分かるということになります。この場合はそれを避けることができるのですが、やはり自分の将来のすべてが分かるというのは決して良いことではないのです。もしあなたが将来はお金持ちになると言われるとするなら、その人はそのために敢えて努力や苦労をするでしょうか。何もしなくても自分はお金持ちになると考えてしまうのではないでしょうか。そのような人生に良い結果が待っているはずがないのです。
 しかし神様を信じている人は、運命論者から摂理論者に変えられるのです。神様は常に私のために最善のことをしてくださるという信仰と信頼であります。
 今経験していることは決して良いものではないとしても、それには何か訳があるはず。何か理由があって辛い経験をしていると考えることができるなら、将来への心配や落胆や不安から守られて、希望を持ち続けることができるのです。
 難しくて苦労の多い道よりも、安易な道を選びやすいのが私たちの常です。できるなら荒野の旅路やいばらの道は避けたいのです。しかしその道は必ずしも安全で確かでかつ間違いのない道であるという保証はどこにもないのです。
 たとえその人がいかなる人生を歩んだとしても、神様を信じ、神様ととともに生きる人生は安全であり、確かであり、永遠の救いに至る道なのです。 
その思いを歌っているのがダビデ王は詩篇23篇(参照)です。
 もちろん神様の約束と保証は他にも数えきれないのです。今置かれている状況の善し悪しに関わらず、神様が私の将来の祝福と幸いのために備えられたものであると受け入れることが信仰ではないでしょうか。
 過ぎた思い煩いや心配や不安は不信仰でもあるのです。詩篇55篇22節、第2ペテロ5章7節(参照)
 次は、神様はヨセフの願いを顧みられたのです。19—20節
 多くの人は将来の計画や願いがあるはずです。たとえば、私が毎今祈っている1つに、息子たち夫婦や孫たちが神様を愛し、神様に従って歩んで欲しいという願いがあります。もちろん生きている時にその祈りに答えていただきたいと思っているのですが、それは私が決められることでもなく、また自分でできることでもないのです。神様にかなえて欲しいゆえに、神様にお任せすべきだと思っています。
 ある祈りの本の中に書いていたのですが、有名な伝道者が、友人の救いのために毎日祈り続けました。しかしその祈りはかなえられずに彼は天国に召されたのです。しかしその後、次から次へと友人が救われて行ったという証しでした。もちろん生きている時にも祈りに答えてくださいます。
 ヨセフはイスラエルの子らに、自分の遺体をエジプトではなく故郷に葬って欲しいことを願っていたのです。イスラエルの民が400年以上も前のヨセフ願いを忘れることなく遺体を携えてエジプトを出たのは、ヨセフが『神は必ずあなたがたを顧みてくださる。』と言った通りに、神様はイスラエルの民を顧みられたからです。イザヤ書49章5節参照
 最後は、荒野での旅路の安全を顧みられた。21—22節
 エジプトからカナンの地に至る荒野については、かつてイスラエルに行った時の記憶しかなく、またそこはすべて観光バスで素通りしましたから、実際に荒野のたびがどれほど過酷で厳しいものであるかの実感はありませんが、敢えて言えることは水も食べる物も何もないのが荒野であるということです。
 200万人を越える民が、昼は厳しい暑さに、夜は急激な冷え込みに耐えることができるのかということです。しかもそれだけの食料をどうするのかということであります。
 近道は食料も調達可能でしたが、強い敵との戦いという危険があったための遠回りでした。しかしそれは神様が導かれたゆえに、荒野の道中での暑さや寒さや食べ物の心配は神様がちゃんと顧みてくださっていたのです(21節、22節)。
 神様は将来のための備えのみならず、毎日の必要や直近の必要もちゃんと備えて下さり顧みてくださるお方です。
 つい先のことが心配で、不安に包まれることが多い私たちですが、主イエス様は、『空の鳥を見なさい。種まきもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。』(マタイ6章26節)と言ってくださるのです。