『危機を好機とされた神』  —いかにして信仰に立つのか-   出エジプト記14章15—31節 2015. 7月5日(日)

『危機を好機とされた神』 
—いかにして信仰に立つのか-
   出エジプト記14章15—31節 15. 7/5
 今日は皆さんもニュースでご存知のようにギリシャでは国民投票が行われます。デフォルトつまり国が破綻するかどうかが決まる日でもあるのです。
 長年、色々なところから借りていた43兆円の返済が不能であることを、ギリシャ国民は身をもって知らなければならないのです。たとえば、給与や年金を削減されるという身を削る条件を受け入れ、国が破綻することを避けるか否かの重大な局面であります。
 ギリシャにとって今回の危機がさらに悪化していくのか、あるいは好機となるのか。どちらにしても世界経済に大きな影響をもたらすことは避けられないようです。
 けさの聖書の箇所ではイスラエルの民が非常に危機的な状況に置かれているなかで、神様は絶体絶命と思えるイスラエルの危機を好機とされるところであります。
 エジプトのパロ王は、神様による10番目の最も恐ろしいさばきによって、430年間も奴隷としていたイスラエルの民をやむなく手放したのです。それはまさに神による奇跡でした。そのことは、イスラエルの民にとっては大いなる体験となったのです。
 さて神様は、エジプトを脱出したイスラエルの民を10日もあれば目的地であるカナンの地に行ける近道ではなく、厳しい荒野に至る道に導かれたのです(その理由は13章17節を参照)。それから間もなく神様はイスラエルの民を紅海に導かれたのです。
 それは袋小路に至る道でしたが、エジプト軍がイスラエルの民は道に迷い込んだと思わせるための神様のアイデアであったのです。
 そして、神様がエジプトの軍勢を追い詰めて滅ぼされることをモーセから聞いた民はモーセに従ったのです(14章4節)。
 ところが迫り来るエジプトの軍勢が民の目に入った時に、彼らは神様に叫び、モーセに向かって、ここで死ぬぐらいならエジプトに残っている方が良かったと猛抗議したのです(14章10、11節)。 
 エジプトの苦役から助けを求めたのはイスラエルの民です。そのために神様は、エジプトに10の恐ろしい災いをもたらして、イスラエルの民をエジプトから解放されたのです。
 ところが、押し寄せるエジプト軍を見て彼らは非常に恐れ、意気消沈し、絶望したのです。
 危機に瀕してイスラエルの民の信仰の脆弱さを露呈してしまったのです。エジプトにおいて神様の奇跡を体験したにもかかわらず、新たな試みに対して彼らの信仰は全く役に立たなかったのです。    
 けさは、神様に信頼し続けられないのはどうしてなのか、そしてそのような時にどうすれば良いのかをご一緒に学びましょう。
 まず第1のことは、神による奇跡体験は、彼らの信仰によるものではなく、神からの一方的なみわざ(恵み)であったことを見逃すなということです。
 神様による奇跡的な体験が必ずしも健全な信仰に導かれるとは限らないのです。
 たとえば神様の奇跡的な体験談を証しされた方が、その後信仰から離れられたということを耳にすることがあります。
 それは奇跡をなされた神様にではなく、奇跡そのものに心を奪われすぎて、奇跡をなされた神様を信じるという信仰に結びついていなかったという例証です。
 しかし、このような場合において良きアドバイスが聖書の中にあるのです。
 イエス様が5つのパンと2匹の魚を増やされて、男だけで5千人以上の人々に食事を配られた奇跡に人々はすっかり魅了されたのです。人々はイエス様に尋ねました。「私たちが神のわざを行うために、何をなすべきでしょうか(イエスを人間として見ている)。」すると主は、「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」と答えられたのです(ヨハネ6章28、29節)。このみことばは、どういう意味でしょうか?
 それは奇跡に心を奪われすぎないように。神から遣わされ、奇跡をなすわたしを信じなさいというイエス様の大切なアドバイスです。
 厳しい状況の中でも、神様はいつも私を助けてくださったという感謝の証しはすばらしいものです。しかし神様は私たちの信仰がどうであるにも関わらず、助けて下さるお方であることをしっかりと認識していないと、あたかも自分の信仰によって神様に助けられ、祝福を頂いたという勘違いをし兼ねないのです。
 もしそうならば、さらなる、新たなる大きな試みに対して私たちの信仰は無力であることに気づかされることが何と多いことでしょうか。
 大きな試みから守られるための秘訣があります。
 それは私たちの信仰がどうであるかという以上に信じている神様のみ力により頼み(神のもとに逃げ込み)、守っていただきたいと願うことなのです。
 「私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください。」(詩篇17篇8節)と敵から命を狙われているダビデが、主を守ってくださいと歌ったものであります。
 信仰において大切なポイントとは、私はどのような神様を信じているのかという確認ではないでしょうか。
 次に第2のことは、民の八方ふさがりの厳しい局面が、エジプトで不思議なみわざをなされた神様を見失わせてしまったのです。
 それは神様を忘れたのではなく、大きな恐れという危機的な出来事によって神様が見えなくなってしまったという状態です。
 空が突然の雲に覆われて風雨に見舞われても、天高いところには不動の太陽が燦々と輝いているのです。やがて風雨はおさまり、雲は消えて、まばゆい太陽が現われて、青空へと変わって行くのです。 
 試練や困難は一時的であり、永久に続くものではなく、神様は御心のうちにその試みの期間をコントロールされるのです。もちろんそれは私たちの信仰を訓練するためであり、練られるためのものです。
 たとえ神様を見失ったと思っても、神様が私たちを見失われるということは決してないのです。
 パイロットは上空でしばしば嵐に遭遇します。もちろん視界はゼロです(視界ゼロの恐怖:先日の激しい雨の体験)。
 ではどうしてパイロットはその危機を乗り越えるでしょうか。それは現在の科学技術を駆使されたコンピューターに頼ればいいのです(最近開発中の自動制御の自動車も同様です)。
 とはいえ、厳しい現状に目を留めてはいけないと言っても難しいのです。
 では解決策とは、信じている神様のみことばの約束に頼り、信じている神様の導きにおゆだねすることが最善なのです。
 さて、追いつめられたイスラエルの民は、モーセが杖を持って上にかざしたその時に、大いなる風が吹き、海に陸が現われたのです(21、22節)。
 民はその乾いた道を渡ったのです。そのあとにエジプト軍も追って来たのですが、陸は海水に包まれて、すべてのエジプト軍は海水に飲み込まれたのです。
 最後は、神様の奇跡ではなく、奇跡をなされた神様がいかなるお方であることをより深く知ることです(31節)。
 イエス様が多くの奇跡をなされ、その奇跡を見て信仰に至る人は皆無でした。 
 主は十字架による罪の身代わりの苦難の死を通して神の愛を示され、さらに死からの復活によって神の御子であることを証明されたのです。
 それゆえに、今日もなおイエスを神の御子と信じる信仰が世界中に広がっているのではないでしょうか。
 無から有を造られ、土からアダムを造られ、死人を生き返らせ、ご自身も死からよみがえられたのです。
 奇跡をなされたから神様を信じるのではなく、奇跡をなされた神様はどのようなお方であるかを知ることが大切なのです。
 さて私たちは間違った神認識を持っていないかを点検しましょう。
『あなたの神は小さ過ぎませんか?』と言う本が出版されていました。題名だけ覚えています。でもこのタイトルだけでもインパクトは十分にあります。
 確かに神認識は間違っていないとしても認識不足はないのか。あるいは神様から見れば、私たちの神認識はあまりにも小さいものであるかも知れません。
 正しく神様を認識をするための唯一の方法は、言うまでもなくみことばを学び続けることです。
 この聖書は神様とはどのようなお方かを正確に書かれている最高の書物です。
『聖書は何と言っていますか?』 ローマ書4章3節 『聖書に書いてある通りです!』コリント第一2章9節
絶体絶命という危機的な状況において、神様は海を陸に変えられ、エジプト軍を絶滅し、イスラエルを救われたのです。 
 民はこれから厳しい荒野に入って行くのですが、「民は神の御力を見て、神を恐れ、モーセを信じたのです。」(31節)。 この紅海の出来事によって、200万以上とも言われたイスラエルの民が厳しい荒野に入る前に、自分たちの信仰がどういうものであるかを知る良い機会とされるだけでなく、民を励まされたのです。その結果が15章の民の主を喜ぶ賛美からはじまるのです。神様はこのようにイスラエルの危機を好機としてくださたのです!
 『信仰とは、置かれた厳しい状況を自分の目ではなく、神様の目で見ることです。』 これは私の言葉です。
 次はダビデのことばです。「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことはない。」(詩篇16篇8節)