『海を陸路にされたお方』 —試される信仰− 15.6/21   出エジプト記14章1―14節

  『海を陸路にされたお方』
    —試される信仰− 15.6/21
    出エジプト記14章1―14節
 皆さんは、チャールトン・ヘストン主演の十戒の映画を見られたでしょうか。3時間40分の超大作であります。私は5回見ましたが、知り合いのクリスチャンは10回見ましたと自慢げに言われていました。 
 十戒の映画は、聖書の記録にかなり忠実に製作されていると思います。なかでもエジプトから脱出したイスラエルの民が、エジプト軍によって紅海に追いつめられた時に、神様が紅海を陸と海に分けられて乾いた地をイスラエルの民が渡る光景は実に壮大なものです。
十戒が日本で上映されたのが1973年で私が23歳の時でした。
 私が23歳のときと言えば、まだクリスチャンではない時に十戒を見たわけであります。
 ですから、迫力ある映画には感動しましたが、単なる聖書の物語の映画化という理解でしかありませんでしたが、信仰を持っていないときと違って、信仰を持って見るというのは感動もひとしおでした。
 さてけさは、エジプト軍に追いつめられ絶体絶命のイスラエルの民を、神様はいかに導かれたかを見ていきます。そして、そこから信仰についての2つの教訓を学びましょう。
 まず第1の教訓とは、厳しい局面は神様をより深く知るチャンスとなるのです(1—9節)。
 紅海を海と陸に分けられるという壮大な神様の奇跡は、『引き返せ』という意味不明の神様の命令から始まりました。
 神はモーセに指示した地に引き返すように命じられたのです。その理由は、その地に行くことによって、エジプトの王パロがイスラエル人は袋小路に入り込んでしまったと思わせるためです。
 その結果エジプト軍がイスラエル人を追って来るという状況が設定されたのです。
 それは、イスラエルの民を逃してしまったことを惜しむパロ王が、袋小路になったイスラエルの民を一網打尽にして連れ帰るという必然的な状況となるためです。
 そして、度重なる神様からの災いをなおも恐れないパロ王のかたくなな態度に対して、神様の徹底的なさばきをパロ王やエジプトの軍隊たちに降すためです。
 とはいえ、モーセが引き返すように命じた時に、民はなぜそうするのかが分からないまま引き返さなければなりませんでした。  
 それはエジプト軍をおびき寄せるための神様の計らいでした。
 『神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。その総計は、なんと多いことでしょう。』
詩篇139篇17節)
 かつて私が薬品会社を退職して、次の会社に行ったときに、会社の規模が全く違っていて、しかも待遇等前の会社と比べてかなり悪くなったことを後悔して非常に落ち込んだ時期がありました。
 なぜ大きな会社を辞めたのかという後悔ばかりで、神様につぶやく日々が続きました。この時は、私の信仰が大きく振るわれるという試みの時でした。
 私のつぶやきというのは、なぜこうなるのが分かっていて前の会社を辞めるはめになったのですかというものでした。
 その後に神様の導きによって「いのちのことば社」で働いていた時に、なぜか良さそうな本を買いあさっていました。それは読みたいからというよりも、持っておきたいという衝動からでした。その時は献身という思いは全くありませんでした。
 3年半ほど勤めましたが、たくさんの専門書を買い集めた結果、神学校に行ったときは非常に助かりました。
 転職で信仰が振るわれ、さらに再就職で献身の準備期間でした。それは、工場勤めの人間が、本の販売という仕事を通して人と話す訓練の時となっていたのです。 
 もちろんイスラエルの試みとは比べものにはなりませんが、確かに信仰を持っていてもなぜそうなるのか分からないことが多いのです。
 創世記の中に、神様のくすしい計りごとについての素晴らしい例証があります。
 父ヤコブが一番可愛がっていた弟のヨセフを妬み、憎しみの結果、エジプトの商人に売り飛ばした兄弟たちが、カナンの地が飢饉のために父の命令を受けてエジプトに食料を求めに行ったのですが、そこで自分たちが奴隷として売り飛ばしたヨセフと再会するのです。ところが、兄弟たちはエジプトで宰相となっていたヨセフの復讐を恐れたのです。しかし、ヨセフは彼らに『今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはいけません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。……だから、今私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです。』
(創世記45章5、8節)
 私たちひとりひとりの人生の中にも神様の計画やはかりごとがあるのです。
 もちろん、それは私たちのためであり、私たちの益のために、成長のために、祝福のために、時には信仰の訓練のために備えてくださるものなのです(ローマ書8章28節)。
 人生において遭遇する厳しい局面は、より神様を深く知るチャンスにもなるのです。
 次に第2の教訓とは、厳しい局面は信仰の成長のチャンスとなるのです(10—14節)。
 10節を見ますと、エジプト軍がイスラエルの民のいる所に近づいて来たのを見て、彼らは非常に恐れたのです。恐れるのは無理もないことです。
 もし私がその場にいたとするなら同様に恐れたことでしょう。そこで彼らが主に向かって叫んだことも当然なことです。
 しかし、困難という状況は時として神様に心を向けさせるという良い機会となるのです。
 ある人は『不信仰は困難を通して神を見るのです。しかし信仰は神を通して困難を見るのです』と言いました。
 人生において苦難や困難に合うというのは、その人の信仰に問題があるからではなく、それらに対して信仰によってどう対処するかが意義あることで、また大切なことであります。
 イスラエルの民は11—12節から分かるように、今直面している大きな困難を通して神を見、あるいはモーセを見ているのです。いや見ざるを得ない状況なのです。
 確かに私たちも何か試練に会うと、その試練という重い荷物で心が占領されてしまいます。そして信仰が働かないという経験はないでしょうか。
 新約時代での最初の殉教者ステパノが石打ち刑に処せられた時に、大きな石で体を打たれ激しい苦痛のなかで、彼は天を見上げると天が開けて、イエスが神の右に立っておられるのを見たのです。
 ちいロバで有名な榎本保郎牧師が、『前は海、後ろは敵、内側は動揺、八方ふさがり、しかし神を信じる者には上が開いている。信仰者とは平方(二次元)の生活する者ではなく、立法(3次元)の生活で生きる者です。』と言っています。  
 民がうろたえ、動揺し切っている時に、モーセは信仰に固く立って言ったのです。
『恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。あなたがたは今日見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。』(13、14節)
 私たちが困難や苦しみに会った時に、イスラエルの民のように心が騒ぎ、動揺する者ではないでしょうか。しかも神様につぶやくかも知れません。
 しかし、そのような時、私たちは何かをしないといけないというあせりや不安を抱きやすいものであります。しかし、何もできないゆえに黙って主を待ち望むというのは、主により頼む信仰であります。  
 物事が順調に行っている時は、その人の信仰の真価は測りにくいものです。しかし、困難や試練に会った時こそ、その人の信仰がテストされ、その真価が問われる時であり、信仰の成長の時となるのです。
 もちろんイスラエルの民は430年という長い間、奴隷生活をして来たために、彼らの神様への信仰も風前の灯だったかも知れません。
 しかし、イスラエルの民にとっては、これから始まるおよそ40年間という荒野の旅は、信仰の訓練と信仰の育成のための学校となって行くのです。
 私たちの人生にも孤独、渇き、欠乏、不安、恐れといった荒野の旅というつらい経験するかも知れません。
 しかし、キリストの弟子で最初に殉教死したステパノのように天を見上げると、そこには主イエスがおられたのです。今も主は、私たちのために日々執りなし、いつも私たちに目を留めてくださり、いつでも助けてくださるのです。
『恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしはあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。』
イザヤ書41章10節)