『苦い水を甘い水に変えられた神』 —望みを神に置く― 15年7月12日(日)  出エジプト記15章22—27節 

『苦い水を甘い水に変えられた神』
    —望みを神に置く―  15年7月12日
          出エジプト記15章22—27節 
 少年が持っていた2匹の魚と5つパンを、イエス様はどんどんと増やされました。それで何と男だけで5000人(大人)を養われたのです。
 この奇跡を見た群衆たちは、感動と興奮の渦の中に包まれたのです。
 ところがそれからしばらく経って、イエス様が『わたしは、天から下って来た生けるパンです。』とお話しされ始めると、弟子たちの多くの者が離れ去って行き、イエス様とともに歩くことをやめたのです(ヨハネ6章)。
 つまり、自分たちの目の前におられるイエス様が、不思議な、素晴らしい奇跡をなされたとことと、主イエス様が天から降りて来られた神の子であるというメッセージと結びつかなかったのです。
  さて、エジプトの奴隷から解放されたイスラエルの民は、神様によって陸と海を分けられた紅海を渡りました。民はその体験を心から喜び、感動と興奮の渦の中に包まれて、民が賛美し、踊っているところを描写されているのが20節と21節です。
 ところが民は、今しがた紅海での感動が冷め止まないうちに、荒野に入る否や、民はモーセにつぶやいたのです。つまり彼らの感動や喜びが信仰に結びついていなかったというのがけさのみことばのポイントであります。
 さて、民は荒野を歩き続けて3日間飲まず食わずの状態でした。。
 当然荒野ですから食べる物は期待できません。もしかして多少の水なら見つかるかも分かりません。
 その後マラという土地に来た時に待望の水が見つかったのです。当然のことですが、民は大いに喜んだことでしょう。
 皆さんのうちに極度ののどの渇きを経験された方もあるかと思いますが、私が高校時代にバレーボールをしていた時に、特に夏の練習は大変でした。休憩時間は多少あるのですが、キャプテンが水は絶対飲まないようにと厳しく言うのです。
 ですから水を飲めると言っても、少しの水を口に湿らす程度までした。
 もし、がぶがぶと水を飲むなら、その後の練習ですぐに、水を飲んだことが分かってしまうのです。もっとも今は多少の水は飲む方が良いと言われています。
 でも水でのどを少しだけ潤すというのは実に大変でした。時々、少しだけと思って水を飲むと止まらずどんどんと飲んだこともありました。それほどのどの渇きというのは辛いものなのです。
 民がマラという所に来た時に、これで待望の水が飲めるという喜びもつかの間、その水は苦くて飲めなかったのです。
 それで民はモーセにつぶやいたのです。リーダーは大変です。モーセものどは渇いているのです。しかしリーダーであるモーセは民たちのつぶやきに謙虚に耳を傾けなければいけないのです。
 もはや、彼らの紅海を海と陸に分けられたすばらしい神様への賛美と喜びは消え失せてしまい、今はモーセに詰め寄ってつぶやいている民の姿を見るのです。
 民の神様への喜びと賛美がつぶやきに変わってしまったのです。その要因はどこにあるのでしょうか。
 
  民がモーセに向かってつぶやいた第1の要因とは、それは荒野において水が見つからなかったからです(22節)。
 民は、自分たちがいる所が荒野であるということをしっかりと認識(覚悟・自覚)していなかったように思われます。
 荒野に水がないというのはごく当然のことであります。もし水があるとするなら、実に幸運なことなのです。
 荒野の道中にて民は、エジプトでは飲む水には困らなかった。どれほど過酷な労働であっても食べる物はあったというエジプトへの回帰の思いが起こってしまったのです。
 人は以前よりも悪くなったと思う状況を受け入れるというのは難しいのです。
 私自身、一部上場企業の薬品会社を退職した時に、次の会社に行った時にその待遇のギャップに愕然としたのです。やめなかったら良かったという後悔の念が私の心を占めたのです。
 挙げ句の果ては、神様に向かってなぜ止めてくださらなかったのですかと、半ば神様にその責任を押し付けていたのです。
 もちろん神様の答えはありませんでした。というかすぐにはその答えが見つからなかったのです。
 私たちはどのようなことであっても前よりも悪くなることは受け入れ難いことではないでしょうか。
 イスラエルの民は荒野にいることがどういうことであるかを十分と認識することなく、またその厳しい現実を受け入れていなかったことによって、神様へのつぶやきとなったのではないかと思われます。
 では信仰者のなすべきこととは何でしょうか。それは、いかなる状況に置かれても、神は私たちを見ておられ、そして決して私たちを見捨てられることはないというみことばの約束に立たなければなりません。
『あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを捨てない。』(ヨシュア1章5節、8節、9節)
 このみことば信仰から離れると出て来るのがつぶやきや不満なのです。
 今皆さんの置かれている環境や生活状況はどのようなものでしょうか。
 なぜ、あるいはどうしてという思いがないでしょうか。
 まずはその現状を受け入れて、そして神様はその現状を知っておられることを信じて行きしょう。そのために祈り続けると当時に、みことばの約束に委ねて行くという信仰がテストされているのです。
 
 さて、次に民がモーセに向かってつぶやいた第2の要因は、マラの水が苦かったからです(23節)。
 水を見つけた時に民は大いに喜んだことでしょう。これでやっと渇ききったのどを潤せるのです。ところがその水は苦くて飲めなかったのです。
 そこで民の心は失望からさらに絶望へと変わったことでしょう。
 私たちも期待したものがそうではなかった時の失望感を経験するものです。そして期待が大きければ大きいほど、その失望感や絶望感も大きいものになるのです。
 冒頭にイエス様のパンと魚の奇跡の話しをしました。イエス様の奇跡の中でも非常に大きな奇跡であるゆえに、四福音書のすべてに記されていると言われているのです。
 その大いなる奇跡を見た群衆たちもまた、イエス様への期待は高まるばかりです。それは抑圧されているローマの属国からの解放でした。
 イエス様をユダヤの解放者として迎え入れようと多くの群衆たちは目論んでいたのです。
 しかし『わたしが天から下って来たいのちのパンです』というイエス様のご自身が神である宣言は群衆たちをがっかりさせたのです。
 是非ともイスラエルの王になっていただきたいというユダヤの人々の期待(野望)は完全に裏切られたのです。
 群衆たちは今の生活が第1なのです。そして1日も早くローマ帝国の抑圧から逃れたいのです。『明日の百より今日の五十』のことわざの通りであります(明日の親鳥よりも、今日の卵)。
 イエス様の『わたしは、天から下って来た生けるパンです。』のメッセージと『そのパンを食べるなら永遠に生きるのです(イエスを信じること)』というメッセージよりも、この世の幸せをすぐに手にしたかったのです。
 いつの日か分からない、あるいは当てのならない将来の天国の約束よりも、目先の幸せを手に入れたいという人々がたくさんおられるというのが世の現実ではないでしょうか。
 確かに人々は、永遠の天国の話しよりも、地上での幸福になる話を聞きたいのです。
 というわけで期待していたマラの水が苦かったためにモーセにつぶやいたのです。
 神様よりもこの世のものに期待しすぎてはいけないのです。しばしば裏切られ、失望感や絶望感を味わってしまうのです。
 永遠に変わることのない幸いはこの世や地上にはなく天にあるのです。 
 ただし、地上においての必要や不足は神様に願い求めなさいと命じているのです(25節)。
 「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」
  (マタイ6章33節) 
 
 結  論 最後に目をとめたいみことばは『その所で』でという言葉です(25節)。
 民にとって失望と絶望は神様を信頼する訓練の時となりました。
 モーセもまた『その所で』いかなる時も神様により頼むことの確かさを学びました。
 そして26節で神様は大切な教訓を示されたのです。それは私たちの行動の基準と心の焦点を神様のみことばに照らして、そして神様の御意志にかなっているどうかということに重きを置くことであります。
 私たちにも、信仰の成長と祝福のために、場合によっては厳しい状況にある『その所で』という神様からの訓練の場があるのです。そのことが、けさのみことばから学ぶべき大切な教訓ではないでしょうか!