『つぶやく民に注がれた神の恵み』   出エジプト記16章1—36節 2015年7/26 

『つぶやく民に注がれた神の恵み』
  出エジプト記16章1—36節 2015年7/26    
けさの箇所は、イスラエルの民がエジプトを脱出してからおよそ1ヶ月が過ぎエリムからシンの荒野に向かうところであります。
 ところでエリムはオアシスでしたので、そこで飲み物や食べる物を十分補給できたことでしょう。しかし民は快適なオアシスにいつまでも留まることはできませんでした。
 そこで次に向かった先はシンの荒野でした。言うまでもなく食べる物は皆無、それだけでなくシンの荒野は、神様が約束されたカナンの地とは全くの逆方向だったのです。
 そのような状況の中で、イスラエルの民が困窮の状態になった時に、またしてもモーセにつぶやいたのです。
 荒野は民にとっては、不安や心配や恐れがあっても、何の希望も見出すことのできない所だからです。
 とはいえ、つぶやき(不平・不満)というのは、口に出して言うか、あるいは心の中に納めているという違いがあるとしても、たいていの人が抱いてしまう感情ではないでしょうか。
 彼らは、何度も神様のみわざを見て来た(体験して来た)にも関わらず、困った時、あるいは窮地に追い込まれるたびに、神様に祈るのではなく現状の厳しさのみに心が奪われてしまって、神様に信頼しきれず、信仰が働かないのです。
 でもこのような経験は、クリスチャンにとっても例外ではないのです。つまり信仰を持っていても不平や不満を抱いたり、つぶやいたりしてしまうのではないでしょうか。でも大丈夫です。  
 9節を見ましょう。『主の前に近づきなさい。主があなたがたのつぶやきを聞かれたから。』 
 皆さんはご存知でしょうか。神様はどんなことでも聞いてくださるお方であることを。
 先週、硬膜下血腫で手術した埼玉のおばさんに会いに行きました(お祈り感謝します)。
 今後は2、3ヶ月ごとに出血してそのたびに手術になる可能性があるということを聞いた娘の心配をよそに、おばさんは結構楽天家で、老人ホームで朝の10時頃から昼食まで、そして外食時、ホームに帰ってから5時頃まで、私にずーと話をするのです。そのため?私は頭が痛くなり、さらにおばさんの話を聞くにはもう限界でした(ということもあって、その日はホームに泊まらずに1時間半かけて東京の立川にいる長男の所に帰りました)。
 おばさんの話の内容は様々な文学書の話でした。4歳の頃から読書好きで、たくさんの本を読んだようです。おばさんは60歳後半の時に2ヶ月で聖書全巻を通読するぐらいです。
 とはいえ、たとえいい話であっても聞き続けるというのは実にしんどいものです。ましてや、人の不平や不満、つぶやきなど聞きたくないというのが正直な気持ちではないでしょうか。
 でも神様は聞かれたのです。耳を傾けられて民のつぶやきを聞いてくださったのです。
 この所で大切なことが教えられるのです。それは、クリスチャンはつぶやいてはいけない、あるいは不平や不満を言ってはいけない、それは不信仰ですと片付けるのではなく、それらのことも受け入れられるという環境づくりが大切なのです。
 私たちは、イスラエルの民のように、すぐに神様につぶやいてしまう者でしょうか。あるいは人のつぶやきを忍耐して聞いてあげることができる者でしょうか。
 実は教会はつぶやく人だけでなく、それを聞いてあげる人も必要としている所なのです。
 願わくは、つぶやき(不平・不満)を聞く立場となり、そしてその人のために祈る信仰者となれるなら素晴らしいことであり、感謝なことではないでしょうか(参照:ガラテヤ6章1—5節)。
 さて指導者モーセにつぶやく民に対して、神様は素晴らしい恵みを施されたのです。 
 それは朝にはマナを降らせ、夕方にはうずらを与えられたのです。マナの説明は14節と31節にあります。
 余談ですが、調理法としてうずらは、水炊き、焼き鳥、肉団子として食べ、またうずらの卵はそばの出し汁に重宝されています。
 神様は、朝にはマナ、夕方にはうずらを民たちの食糧として与えられたのです。常に不信仰な大集団にも関わらず、神様は忍耐され、そしてあわれみをかけられたのです。
 さて、神様はマナとうずらを与えられる中で、信仰の訓練のための3つのレッスンを用意しておられたのです。それは16節から30節において見ることができるのです。
1.神様とともに日々歩む(生きる)。そのためには神様から日々みことばをいただく大切さを教えられたのです(21節)。
 民は1日分のマナを食べ終えた時に、明日マナが与えられるという確証はないのですが、ただ神様の約束に信頼して明日のマナを待ち望むのみです。しかし神様は朝ごとにマナを欠かすことなく与えられたのです。
 まさにそれは民の信仰の訓練でありました。ではどういう訓練でしょうか。
 それは明日のことを思い煩わないで神様に信頼してその日その日を大切にして生きて行くという訓練ではないでしょうか(参照:マタイ6章34節)。 
 今日の私たちにとってのマナとはみことばです。日々みことばを読み、神様の約束に目を留めて生きて行くことです。
 その日その日に必要なみことばを神様から与えられて、そのみことばに信頼して、必要以上に思い煩うことなく日々を過ごすことなのです。
 もちろん将来の計画をしっかりと立てることは大切であるというのは言うまでもないことです。しかし私たちの計画以上に神様のはかりごとにおゆだねする信仰が大切なのです(参考:箴言19章21節)。 
2.安息日の大切にすることを教えられるのです(23節)。
 神様は天と地を創造されて、七日目を安息日とされたのです(参照:創世記2章2、3節)。 その日を聖なる日とせよと命じられたのです。 
 そして、その日を安息日と呼ばれたのです。しばしば誤解されるのですが、神様のために安息日が制定されたのではなく、人間のために安息日が設けられたということをしっかりと心に明記しなければなりません(参照マルコ2章27節)。
 イスラエルの民は長い年月とともに安息日を間違って理解するようになったのです。彼らは安息日が設けられた意義を重視しないで、安息日に伴う様々な規則を重要視したのです。
 規則を守ることは大切ですが、しかしなぜその規則が定められたのかという真意を知ることはもっと大切なことであります。
 さもないと規則は、ただ人を縛るだけのものになりかねません。まさにイエス様の時代における律法学者たちやパリサイ人たちはその悪い模範でありました。
 彼らによれば、イエス様が病んでいる人を癒された日が安息日なら、それは律法を破る行為とみなしたのです。しかし主は、安息日に良いことをすることは、正しいと言われたのです(参照:マタイ12章12節)。
 もし人を大切にしょうとするなら、安息日を守ることです。なぜなら、安息日を守ることによってその人は神様と良い関係を保てるのです。
 今日の時代においては、主の日を大切にすることであります。つまり日曜日の礼拝を大切にすることによって、自分のみならず人をも大切にすることが可能となるのです。なぜなら礼拝は神様と良い関係を保ち続けるために不可欠なのです。神様から離れて、真実な人間関係を構築していくのは容易ではないのです。
 週の始めに私たちの心を神様に向けて、神様を喜び、賛美し、ほめたたえ、みことばをいただいて礼拝することは、魂のためにも良いことであり、真の休息となるのです。
 大切な礼拝とはいえ、時には礼拝をささげられないという様々な事情はあると思います。
 しかし、自己都合、世の都合のために礼拝に来ることができないということが常態化し、それがいつしか習慣化して、あたかも当然であるかのような思いにならないようにしましょう。もちろん律法的になることにも注意が必要です。
 たとえ自己優先やこの世優先をしたとしても、神様の許容(神のあわれみとゆるし)範囲内であるという認識を持つことは大切です。
 何よりも主の日(礼拝)が栄えある日となり、喜びの日となることが、その人にとって人生における真の幸いではないでしょうか。
3.何よりも神様の命令に聞き従うことの大切さを学ぶためです(28節)。
 神様の命令を破った時に、はじめてその命令の大切な意義や精神を学ぶものです。
 確かに人間の罪は、神様の命令に聞き従うことを妨げるものです。自分の思いや自分の願いという自己実現のみを目指すなら、神様の命令を守り、聞き従うことは非常に難しくなるのです。
 しかし神様の御心を大切にして、それを優先していくなら、神様のみことばに聞き従うというのは、決して難しすぎるレッスンではないのです。
 神の民であるイスラエルが、神の命令に聞き従わず、自己実現の道を求めた時は、イスラエルの国は常に衰退して行ったのです。
 イスラエルの民だけでなく、今日の社会における私たちクリスチャンも、自己実現の道を求めやすい環境に置かれていることも事実です。 しかし、神の国を求める道こそ、神様の祝福を受ける唯一の近道なのです。
 さて、荒野でつぶやく民に、マナとうずらを与えられたのは神様からの一方的な恵みであります。もう一つの神様の恵みがあります。それは、神様の命令に聞き従うことによって祝福を受ける都いう信仰にょって得る恵みであります。
 これからのイスラエルの民は、荒野の旅において神のあわれみによる一方的な恵みを頂くだけでなく、神様の命令に聞き従うことによって神様の恵み(祝福)を受ける民となるための信仰のテストが用意されているのです。
 『神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。』(マタイ6章33節)