「あなたの父と母を敬え」—宗教的意義—   第5戒 出エジプト記20章12節 15. 9. 27

  「あなたの父と母を敬え」—宗教的意義—
  第5戒 出エジプト記20章12節 15. 9. 27

 けさ学びます第5戒は、『あなたの父と母を敬え』という教えであります。すでに両親は他界していますからその戒めからは解放されていますと思われる方もおられるかも分かりません。
 しかし、この戒めの背景にある精神を学ぶなら、やはりこの戒めは、両親がいる、いないに関わらず非常に重要な戒めであり、大切な教えであります。
 また親は、子どもたちに敬われる立場ではありますが、今一度親子関係について聖書から学ぶ良い機会ではないかと思います。
 短い戒めですが、キーワードは敬うという言葉であります。この敬うとは、重んじること、優位に置くこと、高く評価すること、すぐれた意味においては崇敬するという意味があります。
 また、この敬うというのは、社会の秩序、あるいは家庭の秩序に関わる重要な言葉ではないかと思われます。
 例えば、今日中国では国のリーダーである習近平国家主席を敬う精神、極端にいえば崇拝するという精神は欠けて来ているのではないかと思われます。汚職まみれの共産党、理想郷の共産主義とはかけ離れた超格差社会等に対して多くの民衆たちは不満を持っているのです。
 なかにはかつての指導者であり、英雄であった毛沢東を崇拝する、あるいはその時代のリバイバルを求める声も一部ではあるようです。
 どの国も同じです。その国に立てられた為政者を敬う、あるいは畏怖の念を抱くということは、その国が秩序を持って国が建て上げられていくための大切な神様の命令ではないでしょうか。
 聖書は教えています。『人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたのです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。』(参照:ローマ書13章1〜3節)
 これを親子関係に適用しますと、家庭における両親は、神様が立てられた存在者であり、子どもは神様が立てられた両親に従うことは、その子どもにとって益であり、祝福であり、幸いであるということなのです。
 もしそむくなら、自分の身に不幸を招いてしまいます。
 ところが、自己確立(自立)する頃、つまり自分の考えや思いが芽生えてくると、親に従うかどうかの基準が自分の価値観や身近な人から教えられることによって左右されてくるのです。
 時には、あんな親を見ていたら、絶対従いたくないし、信頼できないということも起こりうるのです。つまり親なんか尊敬できないということにもなりかねないのです。
 とはいえ両親と言っても不完全な人間であり、罪人であることには間違いないのです。ですから子どもに敬われる両親になるというのは決して簡単なことではないのです。
 そこで一考しなければならないことは、神様が戒められた父母を敬いなさいという中にある大切な精神とは何かであります。
 実は、そこには宗教的な意義があるのです。両親は自らの弱さを知りつつも、神様を敬い、神様を恐れ、神様に従っていく生き方から見えてくる父親像や母親像は、子どもから見れば、それは子どもたちにとって良い影響を与えるものであり、また子どもたちが、どうして両親を敬わなければならないかを十分に理解させる説得力のあるものなのです。
 簡単に言えば子は親の背中を見て育つということでしょうか。聖書が教える親子関係においての大切なことは、まず両親が、あるいはそのどちらかであったとしても、神様に従順であるかどうかが鍵となるのです。
 ですから、親は虚勢を張らずに、今のままであってもいいのです。親として不十分ではないかと思ったとしても、子どもはそこを見ないで、いかに神様を恐れて、神様をあがめて、神様に従って生きているのかというところを見るのです。
 その生き方は一見地味であって、また他の両親から比べてもの足りなさを感じていたとしても、神様はそのような両親を祝福してくださるのです。
 もちろん、親を敬う子どもたちも祝福にあずかるというのは言うまでもないことです。それはエペソ6章2〜3節に書かれているように、『「あなたの父と母を敬え。」これは第一戒めであり、約束の伴ったものです。すなわち、「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束です。』
 神様の戒めには必ず祝福の約束が伴っていることを見逃してはいけないのです。
 さらに聖書は家庭の秩序として、まず妻は夫に従うように、夫は妻のかしらだからです。それは教会のかしらがキリストであるという御国の法則からの来たものであります。
 教会がキリスト従うように、妻も夫に従うように勧めているのです(参考:エペソ5章)。    
 そのような家庭づくりの中での、あなたの父母を敬いなさいという神様の戒めにおいて、宗教的な意義を持っており、またその意義を見出すことができるのです。
 私が小さい時に、両親から聞いた言葉の中で、人様に迷惑をかけてはいけないとか、みっともないことせんといてやとか、自慢できるええ子になることを望んでいたように思っています。
 特に母は、学校の成績の良いときの私を喜んでいました。親戚からもそのように言われることが嬉しかったようです。
 後になってからそのような母親の気持ちがよく分かるのです。それは母が岸本家に嫁いで来た時は、お金がほとんどありませんでした。しかも小学生一年生の私がおり、結構口うるさい姑であるおばあちゃんがおり、少し前に離婚した当時36歳の口べたで、難聴で、片目も見えない偏屈な親父という家庭に嫁入りに来た母です。よく部屋の片隅で泣いていたのを見ました。
 当時母が何で泣いていたのと聞いたときがありました。母が言うには何と言うところに嫁いで来たのかということでした。
 母の兄弟たちはしっかりしていて、お金儲けも上手で、割合と裕福にしていたようです。ところが嫁いで来た岸本家は、前妻にほとんどお金を浪費され、一文無しと言ってもいいぐらいの岸本家が嫌だったようです。
 ところが、運命のいたずらでしょうか、母のお兄さん(7人兄弟?)が交通事故死するという連絡が来て、母は動揺していまい、すぐさま実家に帰りました。そしてそのまま実家にいようと考えていたようですが、お母さんに説得されてまた岸本家に戻って来たのです。これらのことは、家もどうにか暮らしていけるようになってから、母から聞いたことでした。
 それ以来母お金がないのは首のないのと同じやと言って、がむしゃらにお金儲けのために頑張りました。ところが父はあまり欲がなく、お金は天下の回りもの言うたびに母に叱られていたことを今も覚えています。
 ということで私が育った家庭は、しっかり者の母によって守られたのかなと思うこともありました。
 それでも父の商売である自転車業は、口はうまくないとしても、私が他の人に自慢できる腕前でした。まさに職人でした。
 とにかくこのような環境の家庭で育てられたのが私であります。しかし、私はすでに他界した父を心から敬っているのです。
 それは、父(幼少の頃)は近所のお友達と遊んでいる時に誤ってはさみが父の片方の目に刺さり失明したのです。
 おばあちゃんは赦せなかったようです。そこの家では絶対買い物はしませんでした。しかし親父の口からは一言も目のことについては聞くことはなかったのです。
 そして私が薬品会社を辞めるときは一言も言わなかったのですが、母には心配していたことを伝えていたようです。教会に行くときも、献身して神学校いくときも、父からは一言の言葉もありませんでした。
 しかしある時に私が神学校に持って行くための荷物を運んで、車で出る時に親父が私の後ろ姿を見ていたよと、手伝いに来てくれていた当時神学生のS先生とT先生から聞きました。
 そして母がどれだけ私が不憫にならないように気を使ってくれていたかも後から知るようになりました。
 たとえ親がいなくても、変わりなく両親を敬う心は大切なのです。その心の持ち方は、次の世代に引き継がれていくものです。
 子どもは、お金儲けをする両親を見ているのではないのです。裕福な家庭を築こうと努力している両親を見ているのではないのです。子どもたちをいかに愛しているかを見ているのではないでしょうか。
『子ども言わず語らずのうちに、喜んで親に従うためには、子どもに対する親の支配が愛に基づくものでなければならない。』と書いているのです(キャンベル・モルガン著)。
 信仰によって神様の愛を体験していくなかで、子どもたちに敬われる両親になりたいものであります。