第4戒「真の安息とは」−今日的意義−   出エジプト記20章8ー11節  15.9/20

第4戒「真の安息とは」−今日的意義− 
 出エジプト記20章8ー11節  15.9/20
 第1戒から第4戒までは、人間が神様に対して守るべき戒めであり、第5戒から第10戒は対人間関係における戒めであります。
けさ学ぶ第4戒は第3戒と第5戒との橋渡しのような役割を持っていると思われます。つまり第4戒は、安息日ということにおいては神様に向けられた戒めであり、と同時に労働ということにおいては人間に向けられた戒めでもあります。
 けさは第4戒における3つの意義について学びましょう。
まず第1は、6日間働くことの意義について
 9節『6日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。』
 この第4戒は労働の命令であり、また休息の命令でもあるのです。
 8節の安息日の意義は、6日間の労働の中に見出すことができ、同時に9節の6日間の労働の意義は、7日目の安息の中に見出すことができるのです。
 つまりこの6日間の労働と7日目の安息は、切っても切れない関係(相関関係)を持っているのです。そうしたことを踏まえて労働とは何か、つまり労働の意義について聖書から正しく理解することができるのです。
 では、聖書が教える労働とは一体何でしょうか。
『神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。』創世記2章15節
 エデンの園は、何もしなくてもいいという楽園ではなかったのです。そこでは、神様は人間に労働を強制されたのではなく、義務づけられたのです。 
 それは彼らがその地で祝福されるためでした(日本国民の三大義務:納税の義務、勤労の義務、教育の義務もまた、それらを果たすことによって国民のひとり一人に幸せに寄与するのです)。ただし、この時点では労働は労苦が伴うものではなかったのです。
 しかし、アダムとエバの罪の結果、エデンの園から追放され、そして労働は労苦が伴うものとなったのです(参照:創世記2章17〜19節23節)。
 かつてフランスの女性政治家は、「日本人は、蟻のように働き、兎小屋に住む国民だ」と言いました。
 確かに日本人はよく働きます。その勤勉ゆえに日本経済は成長し、人々の暮らしも豊かなものとなりました。  
 しかし、人は何のために働くのかという本来の意味を知らないまま、がむしゃらに、あるいは一生懸命に働いているのが現状ではないでしょうか。
 実は人は何のために働くのかは、人は何のために生きているのかにリンクしているのです。つまり人は何のために働くのかを知らなければ、人は何のために生きているのかを見出すことができないのです。
 さらには労働の意義とは何であるかは、神様の教えから離れては見出すことはできないのです。
 神様は言われたのです。『6日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。』
 働くことは、神様の命令であります。しかもそれは、1週のサイクルを持つ節度の伴うものであります。
 もし1週というサイクルを無視して、お金を儲けるという目的だけの労働によっては、なぜ働くのかという真の意義を見出すことはできないのです。
 あるいは生きるために働くというのは、間違ってはいないにしても、やはり労働の真の意義を知ることはできないのです。
 聖書によれば、労働とは本来神聖なものであり、神様の命令であり、人間にとっては義務ではあるが、その命令を守ることによって神様から祝福を受けることができるものなのです。
 このように神様を抜きにして労働とは何かを論じることは難しいのです。
ところが、6日間働くということだけ  
では、労働の意義を見出すことはできないのです。
 それは神様が命じられた安息日をしっかりと守ることによって、人はなぜ働くのか、つまり労働の意義が認知できるのです(知ることができる)。
 ですから、労働の真の意義を知り、労働によって神様の祝福を体験するためには、7日目の安息についても学ばなければならないのです。
第2は、8、10.11節から7日目の安息という意義について学びましょう。
 この安息日とは、聖なる日であり(8節)、聖なるもの(11節)であります。
 安息日を聖なる日とするのは、その日を他の6日と区別することです。
 ですから、この日は労働を休んで神様のためにその日を献げて、礼拝することによって、他の6日と区別するのです。そうすることによって、この日を聖なるものとするのです。
 それは『主は6日のうちに...すべてのものを造り、7日目に休まれからである。それゆえ主は安息日を祝福し、これを聖なるもの宣言された。』(11節)に基づくものであります。
 神様は人間に労働を義務づけられましたが、安息日を設けて肉体的な休息と同時に、霊性(魂)を向上させるための日とされたのです。
 アダムとエバの堕落の結果、人はもっぱら目に見えるものに心を奪われやすくなり、神様を信頼して生きるよりも、自己に執着し、人を当てに、あるいは物質的なものを当てにして生きるようになり、自分勝手な生き方にも何の疑問も持つことなく、この世のみに生き甲斐を求めて生きるようになったのです。このような生き方(人生観)はかつての私自身の生き方そのものでした。
 人はなぜこの世に生まれて来たのか、人は一体何のために生きているのか、そして人は死んだ後にどこに行くのか分からないままに、がむしゃらに働き、時には度を超した遊びにのめり込み、自らの体を労ることなくむちゃくちゃな生活を送っていたのです。
 もちろん、人は何のために生きているのか知りたいという心の叫びや渇きはいつもありました。そのような人生でしたが、イエス・キリストに出会ってこれまでの生き方に終止符を打ったのです。
 神様はこの第4戒によって、あるいはこの神のことばである聖書によって、私たち人間に、神に造られた人間はもっともっと価値ある生き方と意義ある人生を送って欲しいと願っておられるのです。     
 主イエス様も『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』(マタイ4章4節)と教えられたのです。
 すなわちまことに神様を知り、そしてその方を心から信じ、その方を礼拝することによって、人はなぜ働くのかという本来の意味を知り、神からの労働の対価という祝福を受けることによって神様に感謝する者とされるのです。
 そして私たちの魂(心・精神・霊)にとって大切な安息の日の意義を知り、人は本来の価値ある生き方が始まるのです。礼拝とは『価値ありとする』という意味を持つと言われているのです。
 3.新約時代(今日)における主の日(週の始め)の意義について学びましょう。
 この安息日は律法時代(モーセから主の十字架の死まで)に制定されました。今日もユダヤ教徒安息日(金曜の日没から翌日の日没まで)を厳格に守っています。
 特に律法時代のユダヤ人たちにとっての安息日とは、神の天地創造のわざを覚えるために、もう一つは神によるエジプトの奴隷から解放を覚えるためでありました。
 参照:『あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は安息日を守るように命じられたのである。』(申命記5章15節)    
 しかしイスラエルの長い歴史の中で、いつしか安息日を守ることに拘泥してしまって、安息日の本来の精神を曲解し、あるいは忘れ去られてしまったという歴史的な経緯の中で、主イエス様の生涯において登場したのが律法学者であり、パリサイ人であったのです。
 彼らは安息日を守ることを最優先し、また最重要した結果、ユダヤ人にとって安息日は重荷となり、形骸化してしまって、彼らにとって安息日は何ら益をもたらすことはなかったのです。むしろ多くの害をもたらしていたのです。
 今日のユダヤ人も、本来の意味を失ったまま安息日を厳守していると思われるのです。
 しかし聖書の歴史的な観点から見れば、主の十字架の死によって律法時代は終わりを告げ、土曜日の安息日ではなく、キリストの十字架の死と復活は私たちの罪からの解放を告げると同時に、キリストの弟子たちは主が復活された日曜日に集まって礼拝を持つようになったように、恵みの時代に生かされているクリスチャンは日曜日を聖別し、聖なる日とし、霊とまことをもって神を礼拝しなければなりません。
 今日もなお安息日の精神は失われることなく、創造主なる神を信じ、神をあがめ、神を賛美しているクリスチャンに引き継がれているのです。