『第6戒』 −神聖なるいのち−   出エジプト記20章13節15.10/4

 『第6戒』 −神聖なるいのち−
  出エジプト記20章13節15.10/4
 今日、殺人事件が日常茶飯事となっていることに憂いの念を抱くとともに、くり返される殺人事件に慣れっこになってしまって多発する殺人事件に無感覚になっていくことに危惧を抱くものです。
 殺してはならないという第6の戒めには、いのちは神聖なものであるという大切な真理があります。
 いのちは神聖であるゆえに、いのちを付与された者が他者のいのちを奪うことは決して赦されないのです。
 別の見方をすれば、人を殺す権威はだれにも与えられていないということです。
 ところが、聖書の中に人が殺される場面が多々記されていることについてどのように考えればいいのでしょうか。
 例えば、聖絶についてどう考えればいいのでしょうか。
『あなたは必ず、その町の住民を剣の刃で打たなければならない。その町とそこにいるすべての者、その家畜も、剣の刃で聖絶しなさい。』(申命記13章15節)
 神様がこのところであなたと言われるイスラエル人が、人を殺せませんと神様の命令を拒否することもできるのです。
 しかし、もしその命令に従わないなら、イスラエル人はそれらの住民によって神様が忌み嫌われる多くの悪いものに影響を受けてしまい、イスラエル人が神様の祝福を失い、最悪の結果を招いてしまうということを神様は懸念されていたのです。
 当時、まことの神を知らない、神を恐れることのない異教の民がイスラエル人の脅威となる時には、神様が介入されたというのはよくある事例です。とはいえ神様を知らない人にとって、恐らくこの聖絶は理解し難いものだと思います。つまり神は愛というならどうしてそのようなことを赦されるのかと思われる人も多いはずです。  
 そのことについては、ノアの時代においても同様であります。ノアの家族以外の者たちは洪水によって滅ぼされたのです(神学的に聖絶と位置づけていない?)。
 滅ぼされた理由は、当時の人々が神様の目から見てあまりにも堕落していたからです。ではなぜ弱い女子や子どもたちまでも滅ぼされるのですかと思ってしまいます。
 もちろん、神様の真意は誰にも分かりませんが、神を恐れない、あるいは全く堕落しきった社会の中で、だれが子どもを正しく指導できるのかということです。当然子どもたちは大人の悪い影響下に晒されていたことでしょう。
 そして当時の女性たちが、不道徳で不義に満ちた社会に対して何の抵抗もしないというのは、指導者たちの堕落を容認あるいは黙認することであり、そのような人々は、堕落している人々と同罪ではないのかということであります。
 私たちは、いのちの付与者、主権者のなされることに静観しなければならないのです。これらのことについては、神様の正義と真実を信じてお委ねましょう。
 さてもう一つの殺人があります。それは故意ではなく、過失による殺人です(参照:民数記35章9−34節)。
 誤って人を殺した人のために、神様は逃れの町を備えられたのです。
 それは過失による殺人者が被害者からの復讐から守られるためであり、殺人者が会衆によるさばきから守られるためです。殺人者は当時の大祭司が亡くなったときに、町に帰ることが赦されるという神様が設けられたあわれみの制度です。
 ということで第6戒の「殺してはならない」とは、故意による殺人のことであり、神様から与えられたいのちを奪う権利はいかなる人にも与えられてはいないのです。
 その根拠は、人間のいのちは神聖なものだからです。『人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人のかたちにお造りになったから。』
         (創世記9章6節)  
 さらに、人のいのちは、自ら絶つことは赦されていないのです。人のいのちは神様の主権によって、与えられまた取られるのです(ヨブ記1章21節)。
 一羽の雀さえも、神様の許可なく地に落ちることはないと主は言われたのです(マタイ10章31節)。
 神様によっていのちを付与された人間を殺してもいいという正当性はどこにもないのです。しかし悲しいことに、アダムによってもたらされた罪は、殺人を容易にしてしまったのです。
 ですから罪を持つ私たちは、殺人を他人事としてではなく、場合によっては、あるいは状況によっては自分も殺人者になる可能性があるかもしれないことを心に銘記すべきではないでしょうか。
 例えば戦争の場合はどうでしょうか。戦争で人を殺した場合は、殺人者とはならないのでしょうか。
 旧約におけるイスラエルの戦いでは、神様に命じられた戦いと、自分たちの方から勝手に起こした戦いとがあるのです。前者は常に勝利したのですが、後者は、敗北もしくは、たとえ勝ったとしても、後々に戦ったことによる悪い結果を招いていたのです。
 今日の戦争についても、やはり私たちは聖書から見ていく必要があるでしょう。
 アメリカは世界の警察と言われて来ましたが、その影響力は弱まりつつあります。ただしアメリカが起こした戦争のすべてが正しく評価されているわけではないのです。それは神様が定められることでしょう。
 私たちの群れは、戦争による殺人は第6の戒めを犯すものであると考えるのです。その考え方はイエスの平和の精神と行動を根拠とするものです(第6戒の「殺す」のヘブル語はラーツアーであり、神による聖絶や戦争や死刑による死とは区別する解釈もあります)。
 マタイ26章52節では、ペテロがイエス様を捕らえに来た人に剣によって抵抗したのですが、主イエス様は、『剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。』とペテロを戒められたのです。
 主はご自身が語られた通りに、捕らえられた者に抵抗されずに、むち打つ者に歯向かうことなく、つばきをかけののしる人々をののしり返さず、十字架上においてもとりなし、人々をさばかず、神様のさばきを自ら受けてくださったのです。
 この行為は私たちに何を教えてくださっているのでしょうか。国を攻めて来る敵を殺すことは自己防衛では?
 自分の愛する人が殺されかけているなら武器を持って助けることは当然では?
 聖書から見て、2つの考え方があるのではないでしょうか。一つは、正当防衛では殺人は問われない。もう一つは、たとえ正当防衛であっても人を殺してはいけないという考え方です。
 どちらも間違ってはいないと思われます。死刑においても同様です。聖書は死刑を認めていると解釈する人も多いのです。その解釈では死刑を執行する人が第6の戒めを犯すことにはならないと主張します。
 さて人が殺人に至る最たる原因は、妬み、憎しみ、欲望、恨み、怒りといった罪によるのです。たとえ行為によって人を殺めたことはないとしても、心において人を殺すこともあると聖書は教えているのです。
 『兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。』
 第1ヨハネ3章15節
 聖書は罪ある私たちの心も人殺しの武器に成り得ると教えているのです。そしてみことばは愛することを積極的に勧めているのです。
 その最高の愛のかたちこそが、イエス・キリストの十字架による罪の身代わりによる犠牲の死です。
 この愛を経験した者は、戦争や紛争や内乱、あるいは隣人における争いにおいて主に喜ばれる対応とは何かを知っているのです。
 いのちを粗末に扱うことはいけないことは誰でも分かっているのです。しかし、いのちが神様から与えられた神聖なものであることを知っている者にとっては、それにふさわしい生き方と扱い方と対応の仕方とを求められているのです。
 『キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから私たちは、兄弟のためにいのちを捨てるべきです。』
    (第1ヨハネ4章16節) 
 私たちクリスチャンは平和の使者です。ですから、世界の平和のために祈りましょう。私たちクリスチャンは福音の使者です。ですから、滅びゆく人々のためにとりなしましょう。主が教えてくださった愛を実践する者となりましょう。罪の力は人を殺します。愛の力は人を生かすのです。