『姦淫してはならない』第7戒  15/10/11(日)  出エジプト記20章14節

『姦淫してはならない』第7戒
         15/10/11(日)
 出エジプト記20章14節
 いくら取り締まってもなくならないのが飲酒運転です。「飲んだら乗るな、乗るなら飲むな」という標語もむなしく聞こえてくるのです。飲酒運転による死亡事故のニュースを聞くたびに、何でやとぼやいてしまうのです。
今から40年ほど前のことです。当時はそれほど飲酒運転を厳しく取り締まることはありませんでした。もちろん飲酒運転は重い交通違反であることには変わりありません。
 では違反と分かりつつなぜ飲酒運転をするのでしょうか。経験者である私から言えば、これくらいの酔いでは運転は大丈夫と思っていたこと、もう一つはそう簡単には警察には見つからないと思っていたことです。
 ところが、自転車で警らしていた警官が車の真横についた時は心臓がはち切れそうでした。一難去ってまた一難、一台のパトカーが私の車の後に着いたのです。もう心臓が止まりそうでした。しかも5人乗りで6人も乗っていたのです。私は思わず誰かひとり頭を引っ込めてと言いました。この時も難を逃れたのです。
 どうにかして、職場があった大阪市の東成区から何とか無事に目的地の十三に着き、友人宅に泊まりました。
 ところが翌朝、車中に置いてあった前日のクリスマスパーティーの売上金(5、6万円?)と買ったばかりのお気に入りのコートを盗まれたのです。酔いによってお金の管理の甘さが出た結果であり自業自得であります。
 当時クリスチャンでもないのに、いやむしろクリスチャンに神はいないと豪語していた私が、私に任されて企画した労働組合のパーティーが成功するようにと神様に毎日お祈りをしていたのです。成功に酔いしれ、しかも体も酔いしれ飲酒運転。見つからなかったラッキー。とんでもないことです。
 神様はちゃんと見ておられるという体験と神様にお仕置きをされたという気持ちになりました。信号無視もしました。でも大きな事故にならなかったことが何よりでした。
 もちろん飲酒運転はだめです。自分は大丈夫と思っていてもその運転は実に危険であります。
 今はその当時とは比べ物にならないほど飲酒運転は厳しく取り締まられています。そして罰則も非常に重くなりました。それでも飲酒運転はなくなりません。
 それは、殺人罪は死刑にもなりますが殺人がなくならないのと同じです。
 いくら違反者を厳しく罰しても違反者はなくならないのです。
 ヨハネ8章に、律法学者とパリサイ人が姦淫の現場で捕らえられたひとりの女を連れて来たのです。そして人々がいる真ん中に置いて、イエス様を試そうとして、モーセの律法によれば石打ちにするように命じています。
 もし、ここでイエス様が律法に従って石打刑にしなさいと言えば、あわれみのないお方と批判し、反対にその女を赦すとなればイエスは律法を犯されたと訴えようと罠をかけて来たのです。
 ところが主は、身をかがめて、指で地面に何かを書いておられたのです。しかし彼らはイエスに問い続けたために、主は身を起こして「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と言われ、もう一度身をかがめて、地面に何かを書かれたのです。
 それを聞いた年長者たちから始めて、ひとりひとりがその場から離れて行き、女ひとりがそこに残ったのです。
 イエスは身を起こされて、女に「夫人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか」と尋ねられたのです。
 彼女は「だれもいません」と答えた時に、主は「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」
 この女は、姦淫の罪を犯したために死罪は免れなかったのです。それはモーセの律法の第7戒を犯したからです。この女の背景は不明ですが、どうして彼女は見つかれば死罪に当ると分かりつつ罪を犯していたのでしょうか。見つかれば死罪となるのが分かりつつ、でも生きるためには他に選択肢がなかったのかも分かりません。
 確かに私たち人間は様々な事情と背景の中で罪を犯してしまいます。しかし、罪を犯して心の底から喜ぶ者はいないはずです。誰も罪を犯したくて罪を犯すのではないと信じたいものです。
 とはいえ神様は、人々を不幸にすることを目的として戒めを与えられてのではないことも知らなければならないのです(参照:マタイ5章28節)。
 神様は人々を罪からくる不幸や災いから守るために、また人々の幸せを願って律法を与えられたのです。にもかかわらずユダヤ人たちはその扱い方を間違っていたときも多々あったのです。
 ですから今日の私たちも、神様の律法を正しく理解する必要があるのです。けさの姦淫を犯してならないという戒めも然りです。
 第6の戒めは殺してはならないでした。それは、いのちは神聖なものであるという大前提ゆえに、人を殺すこと(人のいのちを奪うこと)を強く戒められているのです。
 もちろん姦淫してはならないという戒めも、家庭は神聖なるゆえに厳しく戒められているというのは言うまでもないことです。
 つまり姦淫の罪を犯すことは、神様が意図された家庭の祝福を通しての社会の平和と繁栄を破壊してしまうのです。
 ところが今日において、そのような良識を持って姦淫という行為を理解されてはいないのが現状ではないでしょうか。
 家庭の基である結婚は神が定めたものであると理解して、あるいは教えられて結婚をするという人がどれだけおられるでしょうか。結婚がいかに尊ばれなければならないものであるかは、この聖書から教えられない限り知ることは難しいのではないでしょうか。
『結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはなりません。なぜなら、神は不品行な者と姦淫を行なう者とをさばかれるからです。』(へブル13章4節)
 つまり家庭や結婚というものは神様と深く関わっていることを知らなければなりません。なぜなら男女の結婚(一夫一婦制)によって与えられる家庭とは神様の定めによるものなのです。
 つまり神様によって聖定されたのです。ですから、結婚による家庭によって成立つ地域や社会が平和であるためには、最小単位の一家庭がその責任の一旦を担っていると言っても過言ではないはずです。
 そういう意味においては、今日あまりにも安易に離婚されることに危惧を抱くのです。もちろん様々な理由があって離婚されるケースもあります(私の両親は父が賭け事にはまったことが原因で離婚しました)。
 しかしある人は笑いながら、冗談げに私バツ1とかバツ2とかと言っている人を見かけるのです。何となく自慢げに話しているような気がしてなりません。
 結婚とは何かを最初からしっかりと理解して、教えられているなら安易に離婚という言葉は使いたくないはずです。
 姦淫してはならないという言葉にオブラートを着せて、プレイボーイとか熟女とか間違った言葉使いによって、実は神様によってさばかれる姦淫の罪にもかかわらず、それを隠し、だれでもしているかのように取り扱い、 
 あるいは神様が忌み嫌われる不品行を単なるエロイやエッチといった言葉で片付けてしまっている世の風潮に対して、私たちクリスチャンは自戒し、警戒しなければならないのです。
 参照:コロサイ3章5—11節