『盗んではならない』第8戒   出エジプト記20章15節 15.10.18

 『盗んではならない』第8戒 
 出エジプト記20章15節 15.10.18
 前回は第7の戒めである「姦淫してはならない」というメッセージでしたが、その中で私が24歳の時に飲酒運転をしたことをお話したのですが、盗んではならないという戒めにおいても、いくつかのお証しをしたいと思います。
 というのは、このメッセージを準備する中で神様が証しするようにと導いておられるのではないかという思いが与えられたのですが、そのような証しをされる先生方が結構おられるのです。
 以前この教会において、伝道集会の時にお招きした講師の先生が、若い時に電気店である品物を盗んだという証しをされたのですが、その電気店に行くたびに盗んだことを思い出しては心が苦しかったようであります。
 後にクリスチャンになったとき、お店の方に告白して盗んだ品物と同等のお金を返された結果、心に平安を取り戻したという証しをされたのです。
 またある集会において、著名な伝道者から聞 いた証しですが、その方が小さい時によその家の柿を盗んでしまいました。その後クリスチャンになってその家の柿を盗ったことを言いに行ったところ、その家 の人が『これまで柿を盗んで謝りに来たのはお前だけだ』と叱られるどころかほめられたということでした。
 さて私自身の証しですが、私が小学生の6年生の頃?です。
 いとこが留守宅の親戚の家にこっそりと入りました。私もその場に一緒にいたのですが、いとこは財布からお金を盗んだのです。私は恐くなったのですが、彼は大丈夫、大丈夫と言いながら家の外に出て、盗んだお金で買い物をしたのです。そして、私もそれを食べてしまったのです。 
 まるでエバから手渡されて食べてはいけない実を食べてしまったアダムと一緒です。私も同罪であります。
 ところが、クリスチャンになってから、留守宅に入ってしまった家のいとこに、手紙で自分がしたことをすべて告白したのです。その時、いとこは私を赦してくれたのです。
 その後も心に引っかかる罪を思い出してはそれに関わる人に謝り、赦しを求めたのです。幸いなことに、それらすべてが赦され解決させていただきました。
 もちろん心には神様からの平安が与えられたというのは言うまでもありません。イエス様を信じて本当に良かったと思いました。
 さて、盗みといっても物を盗むだけが盗みではないのです。カンニングも、人の作品を本人の許可なく真似ることも(東京オリンピックのエンブレム?)、あるいは法律で禁じられている著作権を侵害することも盗むという犯罪なのです。
 ある人は楽譜を許可なくコピーをして、多数の方に手渡して数十万円(?)も弁償を求められたということを聞きました。
 オレオレ詐欺も、あるいは自分の利益のために誰かの秘密を暴露してその人に大きな損害を与えてしまうのも人の心を盗むという大きな罪ではないでしょうか。
 さらに聖書では、マラキ書3章8節で「人 は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだのでしょうか。』それは、十分の一と奉納物によってである。」と当時のイスラエルの民のおろそかにしていた神様への聖別(ささげる)の態度を戒 められたのです。
 これまでの自分の人生を振り返り、厳密に 盗むという行為がどういうことであるかを、この聖書の教えからじっくりと考えるなら、果たして自分も盗みに近いことをしていたのかも分からないと思われる方もおられるかも知れません。
 あるいは、そのようなことはないと言われる方もおられるかと思います。
 もちろん、ここで犯人探しをしているわけではありません。神様は、なぜ十の戒めの中に盗んではならないという戒めを掲げられたのかを深く理解するために盗みについての広義(広い意味)を学びましょう。
 さてこの戒めは、お互いの所有権を保護するためです。正当な収益や利益あるいは報酬によって得た財産や所有権は、何人によっても脅かされることがあってはならないのです。
 もしそれが保護されないと社会の秩序が崩壊していき、社会そのものが成り立たなくなるのです。それは社会が優先されているのではなく、秩序ある社会の中で人々が安心して暮らすことができることが優先されなければならないからです。
 盗むなという戒めが設けられたのは、聖書が人の性善説を説いているのではなく、元来人は罪人であるという前提があるからです。
 もし人の性善説を主張するなら、外出するときには、どうして家に鍵をかけるのでしょうか。あるいは車に鍵をするのでしょうか。銀行に行って多額のお金を下ろしたとき、どうして人目が気になるのでしょうか。持ち物に名前を書くのは、間違いを防ぐためだけではないはずです。
 「人を見たら泥棒と思え」これは軽々しく人を信用してはいけないという戒めのことわざです。反対に「渡る世間に鬼はなし」ということわざもあるのです。
 これらは、人をあまり信用しすぎることへの忠告と、そうかといってこの世に悪い人ばかりいるのではないという人の情けをお互いに大切にするという思いが込められたことわざではないかと思います。
 もちろん鍵の要らない、無防備で、安心して暮らせる社会は理想的です。 
 しかし聖書から「すべての人は罪人である」という真理を知らない人々であっても、だれであれ自分の心の中を知るなら、やはり大切なものには厳重なセキュリティーは不可欠となるのです。
 さて、この第7の戒めは、好き勝手な財産荒らしや盗みを抑制するものです。その結果、正当な方法によって得た財産と労働によって得た報酬を安心して手にすることができるのです。
 ところが、極度の貧しさはその人を盗みへと駆り立ててしまう状況が生まれやすいのです。
 餓えた者がその飢えから救われるためには、餓えた者が食べ物を盗んで生き延びるか、あるいは食べ物を持っている者が餓えた者に与えて助ける以外にないのです。
 パウロはエペソ4章28節で「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。」と語っている当時の社会的な背景が読み取れるのです。
 当時、貧しいクリスチャンの中に生きるために盗みを働くという背景があったようです。
 ですから主の兄弟であるヤコブは信仰には 行いが伴っていることの大切さを教えるために「もし、兄弟または姉妹のだれかが、着るものもなく、毎日に食べ物にも事欠いているようなときに、あなたがた のうちだれかが、その人たちに、『安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。』と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つ でしょう。」(ヤコブ2章15−16節)と教えているのです。
 このように「盗んではならない」という戒めには、⑴盗みをした人を裁くために、あるいは、⑵人々の財産が守られるためだけに設けられたのでなく、豊かな人々(富める人々)が、日々の生活に窮した人々が盗みを働いてしまわないための環境づくりのための一翼を担っているというのが、この第8戒の中にある3つ目の真意ではないでしょうか。