『偽りの証言をしてはならない』第9戒    出エジプト記20章16節 15.10/25

『偽りの証言をしてはならない』第9戒 
  出エジプト記20章16節 15.10/25
 皆さんも「嘘つきは泥棒の始まり」と小さい時によく聞かされたかと思います。確かに盗人に正直者はいないというのはもっともな話しです。
 とは言っても、嘘をつく者がすべて泥棒というわけではないのです。
 たとえクリスチャンであっても、第8戒の盗むことはないと言える人はたくさんおられるとしても、嘘をつくことはないと言える人はどれほどおられるでしょうか。
 私自身について言えば、一年を通して全く正直に、あるいは真実に生きましたとはなかなか言い難いというのが正直な思いであります。
 大きな偽証はないとしても、その場逃れの小さな偽りがあります。と言いつつも、大きい嘘ではなく小さい嘘と言っている自分の心の中には、少しでも自分の罪を小さくしょうとする思いが働いてしまいます。
 また「嘘は政治家の始まり」という人もいます。昨年都議会で、みんなの党の塩村あやか議員に対するヤジ問題がありました。「早く結婚しろよ」とやじった自民党鈴木章浩都議は、当初私ではありませんよと言いつつ、しかもそのような者は都議を辞めないといけないでしょうとまで言っていたのです。
 神学者バークレーは、「真実を語るためには「偏見」と「利己」と「自己防衛」とを取り除かなければならない」と言ったのです。
 たしかに偽りは本人の略歴や学歴や職位や人格とは関係なく犯しやすい罪であります。鈴木議員は彼女に対する偏見があったのではという利己的な思いと、真実が知れてしまって都議会を辞めさされて窮地に追いやられては困るために自己防衛が働いたのでしょう。実にバークレーは適切な分析をしているのです。
 まさに偏見・利己・自己防衛は嘘の始まりなのです。
 また宗教改革者カルビンは、「この戒めの目的は、真理そのものであられる神様が、偽りを忌み嫌われるので、我々は少しもごまかしなく、真理を保持すべきである。」と言いました。
 では、なぜ偽ることが戒められているのでしょうか。それは神様ご自身が真理であられ、偽りを忌み嫌われるというカルビンの言葉より理解できるのです。
 まず第1に偽りは、神様は真理であるという本質を脅かすものであります。
 つまり偽りが蔓延して行くと真実が打ち消されていくのです。そして真実であられる神様が軽く扱われ、神を恐れることよりも人を恐れるようになり、正義より罪の力が人間社会を支配して行くのです。
 一番の悪い例は、太平洋戦争中において、偽りに固められた軍国主義の中に見ることができるのです。日本の軍司令部はどれだけ国民をだまし続けたことでしょうか。偽りが人を平和や幸せや希望へと導くことはないのです。偽りの結果は、神様が用意された厳しい、あるいはつらい刈り取りが待っているということを肝に命じたいものです。
 第2に偽りは、人間にとって大切な(神様の)真理を見失わせるものです。 
 神様が愛されていたアダムに近づいた狡猾なサタンについて考えてみましょう。
 創造の初めにおいてはアダムもエバも罪はなかったのです。つまり偽りは存在していなかったと言うことができるのです。いわゆるアダムとエバは無垢な存在でした。
 そして、エデンの園においてアダムとエバが祝福され続けるための条件とは、神様の命令に従うことでした。 
 とはいえ神様の命令に従うことが、彼らの自由を奪うことでもなく、まして神様の奴隷になることではなかったのです。 
 むしろ神様が彼らに与えられた自由意志は、人は尊厳な存在であることを証明するものでした。
 ところが、サタン(蛇のかたちをとって)は彼らに近づいて誘惑の罠を仕掛けて来たのです。
 つまり神様によって自由意志が与えられていることが、人間にとってどれだけ尊厳なことであるかを見失わせるために、神様が語られたことばをあいまいにし、さらには神様の言葉に疑いを持たせたのです。
 神様がその実を食べると必ず死ぬと言われたことを、決して死にませんという言葉にすり替えてしまったのです。
 つまりサタンこそが最初にこの地上に偽りを持ち込んだのです。
 それは神様の真実に真っ向から対立し、また対抗するものとなったのです。
 神様が「偽ってはならない」と命じられた根本的な理由とは神の真理を保護するためなのです。
 偽りは真理を見失わせて、神様から人を引き離させるのです。その結果、真理から遠ざかるだけでなく、神様からの祝福も遠ざかってしまうのです。 
 サタンに誘惑された結果、アダムとエバは罪を犯したと聖書は証言しているのです。しかも彼らに罪が入った結果、人類に悲劇と悲惨と不幸をもたらした背景にはサタンの巧妙な偽りが潜んでいたことに心を留めなければなりません。

 ですから偽りを軽く考えてしまうなら、それは悪魔の巧妙な手中に陥っているのです。
 ヨハネ第一2章4節『神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。』
 ヨハネ第一2章21節『偽りはすべて真理から出てはいないからです。』 
 そして主は『真理はあなたがたを自由にする』言われたのです(ヨハネ8章32節)。
 たとえ小さな嘘であっても心が乱れます。それを隠そうとしてさらに嘘をついてしまった結果、最初の嘘よりももっと大きなものとなるのです。
 しかも心はさらに動揺が増幅するのです。
 第9戒の「あなたの隣人に偽りの証言をしてはならない」という命令は、もし神様を知っている者が偽ってしまうなら、隣人はその人の偽りによって、神様(真理)を見失わせてしまうという罪に陥らないようにという警告でもあるのです。
 最後は、偽りは人間関係に大きな亀裂をもたらすのです。
 神様の命令に背いたアダムとエバは、神様の御声を避けて隠れてしまいました。彼らは神を恐れたからです。
 サタンの偽りによって人類に罪をもたらした結果、神様との断絶をもたらしたのです。しかもアダムは、食べてはいけない実を食べるように勧めたエバを非難したのです。
 偽りという罪は夫婦一体に亀裂をもたらしのです。このように偽りは人間関係に亀裂をもたらすのです。
 反対に人間関係において大切なことはお互いの信頼関係にあるということです。
 長年培って来たいかなる信頼関係であっても、大小に関わりなくその人の偽りによって一瞬にして壊れてしまうのです。
 その人が元の信頼を取り戻すためには、どれだけのエネルギーを必要とすることでしょうか。
 学歴詐称によって手に入れた地位は即座に剥奪され、偽りの証言によって証人喚問に出されてすべてのものを失った大物政治家を見て来ました。
 会計の偽証報告で信頼を失って倒産した企業。つまるところ偽証は信頼関係を失墜させるほかに何の益もないのです。
 一度ついた嘘や偽りの証言によってその人の人間性まで疑われ、信頼性が失われてしまうという取り返しのつかない刈り取りが待ち受けているのです。
 真の問題解決は、真実が明るみに出ることです。問題の渦中に偽りが残っている限り、真の解放や平安や自由はないのです。
 『キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見出されませんでした。ののしられても、ののしり返さず、正しくさばかれるお方におまかせになりました。』
 そしてイエス・キリストは、私たちの罪の解決のために十字架で罪の身代わりの死をとげられたのです。それは私たちが罪から離れて、義のために生きる者となるためです。(第一ペテロ2章22節−24節)

『真実のくちびるはいつまでも固く立つ。偽りの舌はまばたきの間だけ。』
箴言12章19節)
『ほんとうの事はいつまでも変わらず、嘘の鍍金(メッキ)はすぐにはげます。』(リビングバイブル:箴言12章19節)