「際限のない欲望」 —第10戒—  出エジプト記20章17節 15.11/ 1(日)

「際限のない欲望」 —第10戒—
 出エジプト記20章17節 15.11/ 1(日)  
 けさで十戒の最後の学びとなりました。第1戒から第9戒までは(心がけについての戒め第1と第5を含め)すべて行為につながるものであり、その行為を禁止するものであります。
 しかし、この隣人のものを欲しがってはならないという第10の戒めは行為の禁止ではなく、心の中で思ってしまうことを禁じているということで他の戒めとは異なるのです。
 しかも、この戒めを最後に置かれた理由は何でしょうか。その真意を知ることはむつかしいのですが,新実用聖書注解諸を参考にして私なりに次のように解釈したのです。
 このむさぼりという心は、十戒のそれぞれの戒めが禁じている行為に門を開かせるのです。たとえば金、銀、宝石で飾られた偶像を見て欲しがる心が、偶像礼拝への筋道をつけてしまうのです(第1〜第3戒)。
 また、商売をしてもっと儲けたいという貪欲は、安息日をも無視するようになる(第4戒)。 
 また、他人の持ち物がよく見える時に、(それを欲しがって)盗みの行為が始まる(第8戒)。
 それでも手に入らないと殺人という恐ろしい行為に走ってしまう(第6戒)。
 そして人を騙してでも(第9戒)、欲しい物を手に入れようと躍起になり、かりに人の妻を欲しがる思いは姦淫につながってしまうのです(第7戒)。
 以上のようにそれぞれの戒めを大切にしない生き方は、当然の成り行きですが、第5の父母を敬うという精神を損なわせるものなのです。
 このように考えますと神様が最後にこの戒めを置かれた真意(理由)が見えてくるのです。
 この世においての法律は、心の中で思っている限りは罪には問われないのです。
 例えば、私はあの人を憎くて殺したいという思いは、決して健全な心の状態とは言えないのですが、しかし世の法律に問われることはないはずです。
 しかし、その人の心が外から見えないとしても、何らかのきっかけで、憎んでいる人を殺してしまうことが現実に起こるのです。
 サウル王も、ダビデを慕っていたのですが(可愛がっていた?)、ダベデが巨人ゴリアテイスラエルの敵ペリシテ人)を倒すという大きな手柄を立てて、王の所に帰って来た時に、人々はダビデ喝采したのです。「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」
 その言葉を聞いたサウル王は、非常に怒り、不満に思ったのです。それ以来サウル王は、ダビデを妬み、また憎しみの目で見るようになり、やがては殺すことを決意し実行に移して行ったのです。
 心で思っているだけですからという状態は、実は決して軽いことではなく、また安心できるものではなく、非常に不安定であり、いつでも罪を犯してしまう非常に危険な状態であると言えるのです。
 ですから、パウロは『怒っても罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。』(エペソ4章26、27節)と怒りや憤りの対処方法について教えているのです。
 もちろん怒りは内面のことだけでなく、外にも現われる行為でもあるのですが、はじめはごく小さな火種であっても、だんだんと膨らんで大きな怒りとなり、やがて外に出てくるのです。
 そのような怒りを持ち続けてしまうと罪の行為を招いてしまうのです。ですからたとえ憤ったとしても日暮れまでと制限したのです。
 ですから、神様は第十戒において、外に現われた罪の行為のみならず、見えない内面的な思いにおいても十分に注意し、また警戒するようにと勧めておられるのです。
 『人はうわべを見るが、主は心を見る。』(サムエル第116章7節)
 つまり人を外面だけでは評価できないし、また見てはいけないのです。
 最近の様々な凶悪な事件において、まさかあの人があのような恐ろしい事件を犯してしまうとは思っていなかったということをしばしば耳にするのです。
 見かけだけでは、人について間違った評価をしてしまいます。確かに、ある面においては、私たちはお互い心の中が見えないゆえに守られていることも多いのですが、神様が最も重視されるのは見えない部分であり、隠れた心の状態を見られるお方であります。
 この世のいかなる法律であれ、あなたは今心の中でこのように思っており、またこのように考えていますから、○○の刑罰を命じますということはありえないのです。
 確かに人の心を見ることはできません。ですから人を評価することは難しいばかりか、間違った評価をしやすいゆえに慎重でないといけないのです。
 私たちが人を評価しょうとするなら、その人の行為から推し量るしかできないのです。しかも、それは人目につくところでの行為よりも、人目につかないところで現われた行為から、その人の人柄やその人の真の人間性が分かるのではないでしょうか。それは、場合によっては、私たちひとりひとりにとって恐れがあると思うのです。
 私は、夜に散歩をしているのですが、しまむらの交差点でいつも悩んでいたのです。それは、回りには誰もいなくて、しかも信号が赤です。まあいいか、車も滅多に通らないから信号が赤にも関わらず横断していたのです。ところがある夜に、一人の若い女性が横断歩道と言っても4メートルほどです。一気に渡れる道幅ですが、その方は信号が3回変わるのを待って、青になって渡られるところを目にしたのです。私はそれを見て以来、その信号では青になるまで待つようになったのです。まさしく『人の振り見て、わが振り直せ。』であります。
 あまり馬鹿正直では世の中を渡れないとよく言われるのですが、私たちクリスチャンは『隠れたところで見ておられるあながたの父が、あなたがたを報いてくださいますように。』(マタイ6章6節)と言われた主のおことばを大切にしたいものであります。
 神様は十戒において、むさぼるという内面的な思いを持つことを戒められたのですが、先ほども言いましたが、むさぼりは9つの戒めとリンクしていて、むさぼりはそれぞれの戒めを守ることを妨げられて、心に生じた罪が行為となってしまうのです。
 むさぼりとは『欲しがる』ことであり、『貪欲』とも訳され、本質的には『楽しむこと』とか『あこがれる』『心に留める』という意味があるのです。
 「楽しむ」、「あこがれる」、「心に留める」という本質的な意味は何となく良いもののように思えるのですが、そのあこがれや楽しみや心に留めるものが隣人の所有物である限り、無性に欲しがることは許されないのです
 他者の所有である領域(プライベート・プライバシー)というのは、決して入り込んではいけないのです。
 事実、この戒めが破られて行くことによって、身近な人間関係が壊れます。また地域社会の秩序が乱れます。さらに国の平和が脅かされ、やがては世界規模での平和が失われて行くのです。
『あなたがたは、欲しがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。』(ヤコブ4章2ー4節)
 人間の貪欲の結果、神様から頂いた命の尊厳までが脅かされるだけでなく、奪われて行くという悲惨な結末が待ち受けているのです。
 たとえば領土問題は非常に難しいのですが、両国の力関係で解決されることがしばしばあるのです。他国よりも強大な武器を装備することが領土問題の解決の早道なのかも知れません。
 しかし、神様の戒めをお互いに守るなら、お互いの平和を保つことが可能なのです。神の戒めを守ることこそが人類が生き残れる唯一の平和の道であると聖書は説いているのです。
 しかし、これまでの歴史を振り返ると、人類はその方法を選択しないで、人間的な方法を選び取って来たのです。
 それはお互いのむさぼりを達成させる道であり、その行き着くところは血と血による争いなのです。
『人はそれぞれ自分の欲に惹かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すと死を生みます。』(ヤコブ1章14、15節)
 これらのみことばから、私たちの際限のない欲望は、ひとつ間違がえると、妬み、憎しみ、恨み、争い、戦いは、やがて恐ろしい人殺しにつながって行くものであります。
 このように神が語られた最後の第10戒は人間にとって非常に重要な戒めであり、クリスチャンであっても心しないといけない大切な戒めであります。