『心動かされた神様』 −偉大なとりなし手− 出エジプト記32章7—14節 15.11/22
『心動かされた神様』 −偉大なとりなし手−
出エジプト記32章7—14節 15.11/22
今年も早いもので来週からはクリスマス・アドベント(待降節)第1週を迎えるのですが、年末年始でふと思い出すことがあります。
今は4軒の家が建っていますが、以前は小さな工場でした。ある年末の教会の大掃除の時に、あまりにも排水が悪いために、工場のグレーチング(側溝)を上げて溝掃除をしたのです。そして、何かと汚物が流れてくるため境界線あたりに蓋をしたのです。
ところが、年明けにそれを見た社長は頭に来て、たまたま外におられた信徒と言い合いになりました。
私は揉めている2人の所に行って、事の次第を社長に伺って謝るべきことは謝りました。どうやら信徒の一言でかなり腹を立てられたようです。
その時社長の一言「君がもっと早く出て来れば良かったんや」と言われました。すると社長は少し落ち着かれ、さらに「岸本さん、あんたはこんな小さい時から知ってるんや」と一言。分かったようでよく分からない仲裁劇でした。
一般的な用語で「仲裁」とは「とりなし」を意味しており、聖書でいう「とりなし」とは、とりなしの祈りのことであります。
けさは、モーセが神様とイスラエルの民との仲裁に立っている場面であります。その仲裁の方法とは、とりなしの祈りなのです。
さて21章から31章はモーセがシナイ山で神様から律法の授与と幕屋に関する指示を受けていたのですが、ときはすでに40日40夜過ぎていたのです。
山の麓でモーセの帰りを待ちに待っていた民たちは、あまりにもモーセの帰りが遅いので、民の中のある者はモーセを待ち切れずに、この荒野において私たちを導く神が必要だとモーセの兄アロンに強く訴えたのです。
ところが、アロンは彼らの偶像を造りたいという要求に反対するどころか、民に材料まで工面させて、それで偶像を造ってしまったのです。
その結果、民は破廉恥な行為、ばか騒ぎ、全く乱れきったのです(2-6節)。
その光景をご覧になられた神様が怒られて、民を滅ぼすとモーセに語られたのです。そこでモーセが神様にとりなしたのです。
特に皆さんとご一緒に学びたいことは、モーセのとりなしによって神様が思い直された(心を動かされた)という事実にあります。
まさにそれは、モーセの祈りの深さ、そして神様との親密な関係において起こったすばらしい出来事ではないかと思われるのです。
私たちもこのモーセのとりなしの祈りから、祈りを通して神様とより深い交わりを持つための良き助けとなり、ヒントとなればと思います。
では神様が思い直されるほどのモーセの祈りとはどのようなものだったのでしょうか。
それはモーセが神様に何を訴えているのかということから3つのことを学び取ることができるのです。
Ⅰ…あなたは偉大なお方ではないのですか(11節)という訴えです。
まずこのように祈れるモーセの偉大さに目を留めましょう。
モーセは神様に対して 「430年もの間エジプトの奴隷であったイスラエルの民が、大国であったエジプトから脱出できたのは、まさに神様の偉大なみわざのほかありません。にもかかわらずそこまでなされて救われた民を滅ばされるのは、あなた自身の偉大さからはとても考えられないことです。それは、全く不本意なことではないでしょうか」と訴えているのです。
もちろん、神様を信じない人をさばかれる特権を持っておられるのは神様おひとりですから、そのような悲しいことにならないように、ひとりでも多くの人がイエス様を信じて救われるようにと祈ることはできるのです。またそうのように祈らせていただいているのです。
しかし、モーセは「どうして神様、あなたが愛しておられる民を、エジプトの苦難からやっと救われたにも関わらず、燃える怒りで民を絶ち滅ぼされるのですか。」と神様に問いただしているのです。しかも、それはあなたの沽券(面子)に関わることであり、何よりもあなたの偉大さに傷をつけるものではないでしょうかと神様に訴えているのです。
これは、神様とより親密な信頼関係を持っているからこそ許されるモーセの嘆願ではないでしょうか。
モーセの偉大さとは、人物の偉大さを指しているのではなく、それは、神様の面前で臆することなく、ためらうことなく、リーダーの代表として、責務として、また民への深い同情心と愛情を持って一歩も引かず、あくまでも神様の心に訴えようとしているモーセのとりなしの姿勢の偉大さにあるのです。
へブル書の著者は『私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。』(へブル4章15、16節)と勧めているのです。それは、大祭司キリストのおかげによって、父なる神様の前に出ることが許されているということなのです。
Ⅱ…神様の栄誉が汚されるのではないですか(12節)という訴えです。
一説によると200万人以上とも言われた民が、神様の大いなる御手を持ってエジプトから脱出できたことによって、敵であり、他の神々をあがめていたエジプトの民にとっては、イスラエルの神は実に恐ろしい神であり、自分たちの神々よりもまさる神であると認めざるを得ない状況が否応なしにあったと思われます。
ところが、ここに至ってご自身の民を滅ぼされるというのは、ご自身の栄誉がエジプトの民に汚されてしまうことにならないのですかと神様に訴え、民が神の怒りから逃れるようにモーセはとりなしているのです。
ここから教えられることは、私たち日本人だけでなく、世界中で常に話題になっているイスラエルとアラブの紛争問題を見て、あるいはユダヤ教、イスラム教、キリスト教が混在するパレスチナ、あるいはイスラエルにおいて、血なまぐさい事件を見るたびに、唯一神の宗教の揉め事にはうんざりするだけでなく、彼らが唯一の神と主張して譲らない神様とは、何と破壊的で、暴力的で、支配的な神様にしか映らないのではないかということなのです(ますます日本人が宗教離れとなる恐れがあるのです)。
しかし、神様はご自分の民であるイスラエルの救いのために熱い思いを持っておられ、そして忍耐され、また心に留められ、決して捨てることはないと約束されたのです。
私たちも日本人のたましいの救いのために、神様は必ず省みてくださると信じて、あきらめることのない熱いとりなし手となりましょう。
Ⅲ…神様は真実なお方ではないのですか(13節)という訴えなのです。
次にモーセは、もし神様が怒りを持って民を滅ぼされたなら、かつて神様がアブラハムに約束されたことがどうなるのですかと神様の真実さに訴えたのです。
私たち人間が、人と約束したことをどんなことがあっても守り通すというのは決して容易なことではないのです。
私が小学生の時に。ひとりの親友が転校になりました。明日から友達がいなくなるのが非常に寂しかったもので、その友達に、毎日この時間になったら、ある動作をしてお互いのことを思い出そうと約束したのです。
最初の頃は約束通りにしていたのですが、いつの間にかすっかり忘れてしまい、とうとうその親友のことも段々と心から離れていったのです。
一時的な感情で約束したことは、いつしか忘れていくもので、守り通すことは本当に難しいことなのです。
どのような約束を交わしたとしても、一寸先は闇です。たとえ約束を守ろうとお互いに誓ったとしても、それぞれの人生の中で何が起こるか分からないものです。
モーセも人間です。失敗もしました。不信仰な時もありました。しかし、モーセは臆せず、遠慮なく神様に向かって大胆に、民を滅ばされるなら、あなた方の先祖に誓われたことはどうなるのですかと、神様の約束は決して反故にされることはないという真実性に訴えているのです。
では今日の私たちは、モーセのような祈りが可能でしょうか。おそらくモーセだからこそ神様は、彼の祈りに心を動かされた(思い直された。原語ではあわれまれた)のではないかと思われるのです。
冒頭に「君がもっと早く出て来たら良かったんや」。さらに「岸本さん、あんたはこんな小さい時から知ってるんや」との一言で、分かったようでよく分からない仲裁(仲裁劇)になりましたと話しました。
なぜ私のような者が仲介者になれたのでしょうか。答えは簡単です。それは、よく言われるところの地元のよしみだったからです。
モーセは直々神様にとりなしましたが、今日の私たちは、イエス・キリストが天のお父様との仲介者になってくださったのです。
それで天のお父様は、御子キリストのゆえに、たとえ罪深い私たちであったとしても、私たちの祈りに耳を傾けてくださるという特権(神のあわれみによる)にあずかったのです。イエス・キリストを介して天のお父様に祈ることができるのです。
それは、イエス様こそ天のお父様の最もふさわしい好(よしみ)だからです。いやそれ以上に最も愛しておられるひとり子だからです。
それゆえに、なぜイエス様が弟子たちに、祈りの最後にわたしの名によって祈りなさいと何度もくりかえして言われた理由がおのずと分かってくるのです。つまり、イエス・キリストの御名によって祈ることによって、神のみことばの約束が保証されるということなのです。
「わたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。」
(ヨハネ14章13節) 参照:ヨハネ15章16