「イエス・キリストはいやし主・救い主」(メッセージの要約) ルカ4章40−44節 2016年9月4日(日) 

イエス・キリストはいやし主・救い主」(メッセージの要約) ルカ4章40−44節 2016年9月4日(日) 

 今日医学がますます進んでいるにも関わらず病にかかり、亡くなっていく人々は減るどころかますます増えている。だれしも健康で長寿を願うものである。そのような人々の願いがあるゆえに、ある宗教は病の癒しを強調する。そして人々はそのような宗教を求めやすい。ところが、特定の宗教を持っておられない、余命いくばくもないガン患者がいやされたということがある。確かに、科学では説明できないことがある。そして、クリスチャンの中にも、いやしの賜物を持っておられる方がおられるかも分からない。しかし、主イエス様はいやしの賜物を持っておられる方ではなく、いやし主なのです。では、主イエス様はどのようないやし主であったのか。
第1に、イエス様はあわれみの心をお持ちのいやし主です(40節)。
 安息日があけた夕暮れに、病んでいたひとりひとりに手を置いていやされたのです。
「イエスは舟から上がられると、多くの群衆を見られ、彼らを深くあわれんで、彼らの病気を直された。」(マタイ14章14節)
 このあわれみとは強い者が弱い者をあわれむのとは違い、羊飼いから遠く離れ、水や食べるものもなく、野獣を恐れて震えている迷える小羊を抱きかかえるというあわれみの心です。
 自分勝手なことをして、羊飼いから離れ、危険な目に遭うのは自業自得とは言われず、弱り果て傷ついた小羊を助けようとするあわれみの心です。 
現在社会は、人間関係がより複雑化し、ますます難しくなる中で、主イエス様のようなあわれみの心が求められている。心を病み、どこにも行くことのできず、居場所のない人たちが多くおられる中で、教会がそのような方々のためにお役に立つなら幸いである。何よりも、いやし主なるイエス様が、そのような方々を祝福してくださるのです。
 第2に主は謙遜な心(へりくだった心)をお持ちのいやし主です(42節)。
 マルコ1章には、「イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所に出て行き、そこで祈っておられた。」主は、奇跡やしるしをなされた後で、いつも天の父なる神の前に、祈りのひとときを持たれた。ところが群衆たちは、イエス様を探し回り、イエス様をユダヤの偉大な王、救世主にしょうとした。しかし主は、この世の栄誉を一切拒まれた。
 「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることが出来ないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」
 主は私たちクリスチャンに、相手の目の中の小さなちりを見つける前に、まず自分の目の中の大きな梁を取り除くようにと謙遜になることを教えられた。残念なことに、彼らのいやしの体験は、へりくだり(謙遜な)の主を見い出すに至らなかった。
 最後に(第3)主は犠牲的な愛の心をお持ちのいやし主です(43節)。
 「他の町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから」
 主はここで大切なことを教えられた。それは、病のいやしはその人の苦しみから解放するための一時的なものである。しかし、主が来られた第一の目的は御言葉による福音宣教であり、私たちの魂の永遠的な救いのためであることを明確に語られた。
 そのことのために、主イエス様は、私たちの罪の赦しのために十字架によって尊いいのちを犠牲にされて、私たちに救いの道を備えてくださった。 「キリストは十字架の死にまでも従われたのです。」(ピリピ2章7節)
 それだけでなく、この救いを人々にお知らせするという尊い働きを、私たちクリスチャンに委ねられた。そのために私たちは、身近な人々の救いのために祈り、あかしをさせて頂き、そして、キリスト教の文書を手渡し、聖書のことを知らせるために、普段の人間関係を大切にしましょう。