「奇跡的な大漁と漁師たちの召しと」 (メッセージの要約)ルカ5章1節ー11節  2016年9月11日(日)

「奇跡的な大漁と漁師たちの召しと」 (メッセージの要約)ルカ5章1節ー11節 2016年9月11日(日)
 
 「召し」のギリシャ語はカレオー、英語はコール。意味は「呼ぶ」。つまり神に呼び出された者の集まりが教会(集会=エクレシヤ)である。
 さて、漁によって生計をた立てていた彼らをご覧になられて、「わたしについて来なさい、あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう。」と言われてすぐに、何もかも捨てて主に従ったというイエス様の召しとはどのようなものか。
 第1に、主はその他大勢の中から召されなかった(1節、2節)。
マタイ4章10節では、ペテロとその兄弟アンデレをご覧になったと書かれている。主の奇跡を求めて主のみもとに押し迫る群衆からは選ばれなかった。主は私たちひとりひとりを凝視され、キリストの良き証人となるために私たちを必要とされ、私たちに期待され、私たちを呼んでこの教会に集めて下さり、人々の魂の救いという尊い働きのために召してくださった。
「ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行っていれば、つまずくことなど決してありません。」(第2ペテロ1章10節)
第2に、それは新しい世界観(信仰の世界)を体験するため(4節―9節)。
夜通し漁をしたが一匹もとれず大変失望していたペテロたちに向かって、主は「さあ、深みに漕ぎ出して、網をおろし、魚をとりなさい。」と言われた。夜通し漁をして魚がとれなかったのは、ペテロたちの腕のせいではなく自然界に原因にあった。いかにペテロたちがプロの漁師であったとしても自然法則は変えられない。ところが、ペテロは主のおことばですからと網をおろしたその直後に、魚でいっぱいの網を手にして、信仰による新しい世界を経験した。それは彼の神体験でもあった。
さて、けさの所から教えられることは何か。それは、信仰によって生きるとはどのようなことなのかです。それは、罪を犯さないように心がけ、献金は毎月忘れない几帳面な信者となり、礼拝を休まず、毎日聖書を読み、祈る生活をすることでしょうか。もちろんどれも信仰生活の基本である。しかし、信仰者の醍醐味とは、日々神は生きておられるという証しと実感ではないか。私たちも信仰の網をおろすなら、ペテロのように信仰による新しい世界を経験する。
最後は、それから後すばらしい人生にして下さる(10―11節)。
主イエスはペテロに、「これからのち、あなたは人間をとるようになるのです。」と言われた(10節)。特別な教育や知識のない無学な彼らが、後には多くの人々をキリストの救いに導き、主の教会を建て、神様のためのすばらしい働きをする大きな器となった。
では、主イエスを信じて召された私たちの「それから後」はどうでしょうか。あるクリスチャンは、主の召しに答えるのは、私のような者ではなく、自分よりもっと能力や賜物がある他の人たちだと思われるかも知れない。でも、ペテロ、ヨハネヤコブ、そして他の弟子たちも、弟子の条件がすべて満たしていたから召されたのではなかった。何もかも不十分な人たちだった。しかし、彼らは何もかも捨ててイエスに従った。ある人は何もかも捨ててとは、「それは、決して完全な廃業を言うのではなく、生活の優先権がどこに移ったかを示す。」と言った。  神様の召しに応答するとは伝道師、牧師、宣教師になるという意味だけではない。パウロはすべてのクリスチャンに「その召しにふさわしく歩むように」(それを優先するように心がけて欲しい)と勧めている。