「神様が私たちに望んでおられること」要約メッセージ ルカ5章12節—16節 2016年9月25日(日)

  「神様が私たちに望んでおられること」 ルカ5章12節—16節 2016年9月25日(日)

 イエス様の時代に非常に忌み嫌われた病の一つと思われる重い皮膚病に冒された人が、イエス様によって癒された。そして、イエス様がこの事を誰にも言わないようにと厳しく戒められたにも関わらず、彼は道々で人々に言いふらした。 
 不治の病をいやされるという神の祝福にあずかりながらも、主が望まれることができなかった。この箇所から、神様が私たちに何を望んでおられるかを考えてみましょう。
まず第1に神様が望まれているのは交わりの回復です(12—13節)
当時、重い皮膚病の者は、人に近づいてもいけない、もし誰かが近づくなら、私は汚れている!と大声で叫んだ。つまり、この病人はイエス様に近づくだけでも大変なことだった。しかし彼は思い切って治して欲しいと懇願した。主は、「わたしの心だ、清くなりなさい」と言って彼に触れられて。彼をいやされた。この病人は絶望感と孤独感と死の恐れの中で、ただ死を待つだけの人生だった。彼にとって、家族や親しかった友との断絶、社会との隔離は何よりも辛いものであった。 
人はひとりでは生きることは出来ない。人は誰かを必要とし、また誰かに必要とされてこそ生きがいを持って有意義な人生を送ることができる。主は、そのような病人にさわられて、不治の病を癒され、断絶されていた人々との交わりを回復された。
 聖書の教えによれば、神様と私たちとの交わりは、罪によって遮断されている。その結果、人間の心は、死への恐れ、孤独感、罪責感、空しさがある。しかし、主イエス様は十字架刑によって、私たちとの交わりの回復のために、神との断絶の原因である罪を贖い、神との交わりの回復という道を開いてくださった。
第2に神様が望まれていることは霊的な交わりです。(14、15節)
主は、この人に2つのことを命じられた。1つは、わたしに癒されたことを黙っているように。もう1つは、祭司のところに行って癒されたことを見せることであった。
 しかし、彼はこの出来事を言い広めた。その結果、さらに多くの群衆がイエスをとりまいて表立って町に入れなくなった。そのことは、福音宣教の大きな妨げとなった。癒された人は、自分の思いを優先し、主が望まれていることに心を向けなかった。主は、いやされた彼が祭司によって社会復帰と人々との交わりの回復を宣告され、神との交わりの回復をも望まれた。しかし彼は、主の思いを顧みず、自分の思いで行動してしまった。
 私たちも、主のことばであるみことばから目をそらすと、自分の思いや感情だけに頼り、利己的になり、神の御旨から離れやすくなる。しかし、みことばに聞き従う時、御霊の思いを知り、主の御旨が明らかにされる。神様のみ旨はいつもみことばの中にある。
 「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、また、いのちです。」ヨハネ6章63節 
 主は、みことばを通して、私たちと霊的な交わりを切に求めておられる。
第3に主が望まれていることは父なる神様との交わりです。(15、16節)
「主はよく荒野(寂しい所−口語訳)に退いて祈っておられた。」
主の評判はますます高まり、至る所から多くの群衆が主の所に来た。そして、主はあらゆる病を癒された。しかし、主はいつも人気(ひとけ)のない所に退き、父と祈りの時を持たれた。主もまた、疲れや渇きを覚え、憂い、悲しみ、苦しみ、痛みを経験された。それゆえに、主は父なる神の上よりの励ましと力とを必要とされた。私たちも、忙しい日々の生活の中で、しばしその場所から退き、神様の前に静まる時を持ちましょう。
さて、この病人は肉体のいやしだけに満足した。しかし今日、心の平安、満たし、喜び、愛、力、励ましといった魂の救い(全人格的な救い)を求めている人が多くおられるのです。
神様は私たちクリスチャンと交わりたいと願われているだけでなく、もっともっと多くの人たちがまことの神様を知り、ご自身との交わりを回復したいと願っておられるはずです。