「しっかりしなさい!」—あなたの罪は赦されたー 要約 ルカ5章17節―26節 2016年10月2日(日)

  「しっかりしなさい!」—あなたの罪は赦されたー 要約 ルカ5章17節―26節 2016年10月2日(日)

この箇所では、イエス様が中風をわずらっている人をいやされた。注目すべきは、主が語られた「あなたの罪がゆるされた」である。つまり病気のいやしが中心ではなく、罪の赦しがカギなのです。
 さて、この人が中風をわずらったのは、生まれつき弱い体のためか、不摂生な生活が原因なのか、あるいは不道徳な生活の結果招いたのかはよく分からない。しかし、誰しも突然の不幸、また不幸が続くと、どうして?何か悪いことをした?ひょっとすると昔あのようなことをしたから、今こんな目に会っているのではと思ったりしないでしょうか。
 私は田舎住まいです。先祖の因縁で、あそこの家には色々と悪いことが起こるんやとよく耳にしたのです。本当にそうなのか。そのように言う根拠はどこにあるのか。

 ところが、主イエス様は、中風の人に過去にどのような罪を犯したのか、こんな病気になるような何か思い当たる悪行はないのかとは一切問われず、また罪を告白するなら、病気をいやしてあげようとも言われず、それどころか、中風の人が求めてもいないのに、「友よ。あなたの罪は赦されました。」と宣言された。では、なぜ主は病のいやしと同時に罪をも赦されたのか。それは、たとえ中風の人の病がいやされても、その人の罪は、その人自身を生かすことが出来ないのです。しかし罪が赦されてこそ、その人は生かされると聖書は教えている。

 エペソ2章1節〜5節でパウロは「あなたがたは、自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって..しかしあわれみ豊かな神は、私たちを愛して下さったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし」と言っている。
この中風の人にとって、体が動ないことが自分にとって最大の不幸だと思っていたことでしょう。だれであれ、人は幸せになりたい。ところが、幸せとは何であるかをよく分からないで人生を送っているという矛盾もある。では真の幸いとは何か。実は聖書は何が幸いで、何が幸いでないかを教えている。聖書は、人間の不幸の根源は罪であると明示している。

 ローマ書4章6―8節でユダヤの王ダビデは、行いとは別の方法で神によって義と認められる人の幸いを、「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは幸いである。主が罪を認めない人は幸いである」と言っている。

 主イエス様が、病のいやしだけでなく、人の罪を赦す権威をお持ちであることを人々に分からせるために、罪の赦しと、中風のいやしとどちらがやさしいかと問いかけられて中風の人をいやされた。しかし、罪のゆるしは目には見えないために、律法学者、教師たちは、イエス様が真の権威をお持ちの神の御子であることを分からせるために、中風のいやしの前に、罪のゆるしの宣告をされた。

 ところが、それを見て、聞いた律法学者、教師たちは心の中で理屈を言い出した。では彼らの不幸とは何か。彼らは神のほかに、誰も罪を赦すことは出来ないと律法で学び、また人々に教えながら、自ら罪のゆるしを体験していないことにある。いかなる人であれ、自己の罪深さを認識しょうとしない、目を向けようとしないなら、神様の罪のゆるしという体験はできない。

 ルターが書いた小信仰問答の中に「罪の赦しあるところ、そこにいのちと祝福がある」という言葉がある。中風の人は、病気がいやされただけでなく、罪の赦しを得て自分で床をたたんで、神を崇めながら自分の両足でしっかりと立って家に向かって行った。それは、罪赦され、これからは神様とともに幸いな人生を歩んで行くということを暗示しているのではないか。
 
「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦されている。」という、このしっかりしなさいとは、確信を持ちなさい。人生はあなたにとって不確かなものではない。しっかりした地盤があると言うことをはっきりわきまえたらよい。勇気を持ちなさいとさまざまに訳されている。
 
 私たちが、確かで幸いな人生を歩むためには、人間の根本的な罪が神様によって解決される必要がある。なぜなら、罪とは的外れな生き方を意味する。それは、自己中心的な生き方を意味し、神様に背を向けて自分勝手な生き方を意味する。 
 ですから、神様に向かってUターン!つまり悔い改めて(方向転換の意味)、十字架で私たちの罪の身代わりとなられ、死なれて三日目に死からよみがえられた神の御子キリストを信じて、罪のゆるしを受け、永遠のいのちの祝福にあずかり、日々神様に生かされ、守られて歩んで参りましょう!