「信仰による新しい喜びと新しい力」〜ユダヤ教からキリスト教への変革〜ルカ5章33節−39節 要約 2016年11月20日 港キリスト教会

 「信仰による新しい喜びと新しい力」〜ユダヤ教からキリスト教への変革〜ルカ5章33節−39節

かつて私が、マニュアル車からオートマ車に乗り変えた時に、乗り慣れるまで慎重な運転を心がけた。というのもオートマ車による運転ミスで大きな事故が多発していたからです。事故原因として、一度体で覚えたことを、にわかに切り替えるのは非常に難しいということが考えられる。それはまた、信仰の世界にも共通している。例えば、ある宗教の教えが心の中に深く刻まれてしまうと、異なる新しい教えに切り替えるというのは容易ではない。

 さて、主イエスの時代において、ユダヤ人の間にも信仰についての大きな問題が生じた。それは、パリサイ人、律法学者といった宗教学者や、バプテスマのヨハネの弟子たちまでも、主イエスの弟子、取税人、罪人と呼ばれていた人たちが、取税人をやめると決意したレビ(マタイ)の家で、みんなで飲んだり食べたりしているのを見て、「私たちは断食するのに、なぜあなたがたはしないのですか」と非難した。
 それに対して主イエスは3つのたとえ話(花婿とその友だち、新しい着物と古い着物、新しいぶどう酒と新しい皮袋と古い皮袋)を用いて論駁された。

 では、これらのたとえ話にはどんな意味が隠されているのか。それは信仰の世界における古いものから新しいものへの切り替え(移行)である。具体的にはユダヤ教からキリスト教への切り替えである。主イエスはこのたとえ話を用いて、当時の伝統的でかつ形式的なユダヤ教世界にはない、新しい時代(B・CからA・D)における、新しい信仰(キリスト教)の到来を明らかにされた。
 まず第1に新しい信仰には新しい喜びがある(34節−35節)。

 主イエスが34節で「花婿がいっしょにいるのに...」と語られ、またマタイ9章15節では「花婿につき添う友だちは、花婿がいっしょにいる間は、どうして悲しんだりできましょう」と語られた。
 この花婿とは言うまでもなくイエス様御自身である。ですから、わたしといっしょにいるのに、なぜ悲しみのための断食をする必要があるのか。それどころか大いに喜ぶべきであると言われた。
 当時のユダヤ教は、特に行いを重んじる宗教であった。ですからパリサイ人や律法学者、またヨハネの弟子たちは、断食と祈りによって、この世の汚れから身からだを守り、きよい生活を求めて生きていた。
 ところが主イエスによってもたらされた新しい信仰とは、喜びの宗教であった。その喜びとは、主がヨハネ16章22節で「あなたがたには、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」と言われたものである。
 私たちが人生において経験する様々な悲しみ、苦しみ、痛み、辛さ、孤独、絶望といった状況に置かれた時、もろく崩れていくような心の拠り所ではなく、イエス・キリストを信じることによって与えられる新しい喜びは、試練の只中で守られ、支えられ、励まされるものである。しかもこの喜びは、キリストを信じるすべての者に与えられると約束されている。「希望の神が、あなたがたを信仰による全ての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みに溢れさせてくださいますように。」(ローマ書15章13節)

 第2に新しい信仰には新しい力があるのです(36節)。

 新しいぶどう酒のたとえの真意は明白である。新しいぶどう酒は発酵しやすく、古い皮袋では破れてしまって、新しいぶどう酒も駄目になるために、新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れなければならない。
 当時のユダヤ教は、人々にとって心の平安となるよりも心の重荷となっていた。しかも形式を重視しすぎたユダヤ教は、もはや人を新しく変える力を失っていた。取税所に座っていたマタイが、お金儲けするには申し分のない仕事から足を洗うことができただけでなく、主の招きにすぐさま従い、全く新しい生き方をスタートできたというのは奇跡である。
 それは、マタイが当時のユダヤ教の教えにはない、主の教えのうちにある新しい力を見出したからではないか。
 ダビデは「主は私の力、私の盾。私の心は主により頼み、私は助けられた。」と詩篇28篇7節で、またパウロは、エペソ1章10節で「神の全能の力の働きによって私たちが信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大な者であるかを、あなたがたがすることが知ることができるように。」と語っている。 
 親は子供(子供も親に)に、夫は妻(妻も夫に)に、上司は部下(部下も上司に)に、先生は生徒(生徒も先生に)に、もっとこのように変わって(なって)欲しいと願い。あるいは教会においても、牧師は信徒(信徒も牧師に)に、このような牧師や信徒であって欲しいと願うことはないでしょうか。
 でも多くは、自分が変わるべきことをなおざりにし、いつもあなたが、あるいはあの人が、あるいは回りが、なのです。しかし、私たちが願い求めるべきものは、キリストを信じる時に与えられる新しい喜びと新しい力です。
 
 私たちの罪の赦しの身代わりのみならず、古い皮袋=つまり、いのちのない儀式的で形式的なユダヤ教を、新しい皮袋=つまり新しい喜びと新しい力を与え、永遠のいのちをもたらすキリスト教に変革(移行)するために、ご自身の尊いいのちを十字架で捨ててくださった。今一度主イエスの愛に心から感謝したい!