「真の解放をもたらす信仰」 ルカ5章37−39節 要約 2016年12月4日(日)港キリスト教会

   「真の解放をもたらす信仰」 ルカ5章37−39節  
 ユダヤ教一神教であるゆえに、ユダヤ教指導者たちの多くが、神の権威を持っておられたイエスに対して非常に懐疑的であった。それで、イエスの弟子たちが断食をしないことや、イエスが罪人たちと一緒に食事をしていたことが、律法学者やパリサイ人たちからすれば、律法を破る行為と見なし、「なぜ、断食をしないのですか」と非難した。そこでイエスは、たとえを用いて新しい信仰の到来とその真理を明らかにされた。

 まず第1に、メシヤ(キリスト)信仰には新しいいのちがある。
 収穫したぶどうから作ったぶどう酒を古い皮袋に入れると、新しいぶどう酒の発酵力のために、古い皮袋は破れて新しいぶどう酒もダメになる。この古い皮袋とは、律法を間違って解釈していた当時のユダヤ教ではないだろうか(私的解釈)。確かに律法は人を罪に定める。しかし、律法は罪をさばくことを第一の目的としない。神が律法を設けられた本来の目的とは何か。それは、律法によって人は罪人(つみびと)であることを認識させられ、そのことによって、人は神の赦しが必要であり、かつ神に救いを求めない限り、真の救いがないという事実を人に分からせるためにある。

「律法は私たちをキリストへ導くための養育係となりました。」(ガラテヤ3章24節)「それで私には、いのちに導くはずのこの戒め(律法)が、かえって死に導くものであることが分かりました。」(ローマ書7章10節)
 「…。約束=アブラハムを通しての救いである永遠のいのちが、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。」(ガラテヤ3章22節) 
 つまり、当時の宗教家たちが教えていた律法そのものは良いものであっても、律法への間違ったこだわりが、むしろ人を罪に定め、まことのいのち(永遠のいのち)に至る道を遠ざけていた。しかし、イエスご自身を信じる者は永遠のいのち(新しいぶどう酒=私的解釈)が与えられるという新しい信仰の到来を、イエスはこのたとえによって明らかにされた。

 イエスは、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは、御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3章16節) と約束された。つまり、イエス・キリストを信じるなら、死んで終わりではなく、永遠のいのちを持ち、神の国に至る。この永遠のいのちという新しいいのちは、当時の形骸化したユダヤ教にはなく、神の御子イエスへの信仰によってのみ得ることができる。
 
 第2は、メシヤ(キリスト)信仰には、新しい価値があるのです(39節)。
 新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れる。それは、長期間保存させて、美味しいぶどう酒を作るためである。つまり、ぶどう酒は古いほど美味しくて価値がある。39節に書かれている「古い物は良い」とは、古い物が持っている優れた価値のことである。ですから、この新しいメシヤ信仰には優れた価値がある。
 では、当時のユダヤ教は価値がなかったのか。もちろん宗教家たちが手にしていた聖書そのものは価値があった。彼らはその価値を誰よりも知っていた。しかし彼らは、価値ある聖書を価値無きものとした。というのも、聖書の価値を知るには、聖書を学ぶだけでなく、あるいは、教えるだけでなく、聖書の教えに聞き従うことによって、はじめてその価値を体験できる。「古いぶどう酒を飲んでから、新しいぶどう酒を望みません。」と主が言われたのは、古いぶどう酒は、新しいぶどう酒よりも美味しい。つまりイエスがお話になられた新しい教えは、信じなければその価値を知ることができない。
 人々の心を罪の力で支配させたまま、あるいは拘束させたまま、また心の自由と平安を奪ってしまう当時の宗教家たちの教えではなく、イエスが教えられた新しい信仰は、義務的で強制的なものではなく、自発的でかつ自主的で、しかも喜んで神に仕えることを可能にしてくれる。また、それは私たちの魂(心)を解放し、また魂(心)に自由を与え、新しいいのち(永遠のいのち)と新しい価値(神の子どもとなる)をもたらすものである。