「天の報いを求めて」ルカ6章20−26節 要約 2017/1/15(日)港キリスト教会にて

「天の報いを求めて」ルカ6章20−26節 要約 2017/1/15(日)港キリスト教会にて
 この箇所には4つの祝福と4つのわざわいについて書かれている。特に祝福される生き方に焦点を当てて学びましょう。 

 Ⅰ.20節と24節は、貧しい者の幸いと、富んでいる者のわざわいについて。

 この世で富んでいる者は、地上のもので心を満たそうとして、神について無関心となり、神を求める機会を損なうならあわれな者である。しかし、貧しい者は幸いである。なぜなら、貧しさによる心の渇きは神を求め、また神に出会う良いチャンスとなり、神の国がその人のものになるなら実に幸いなことである。
 主は、「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだからです。」(ルカ6章20節)と教えられ、ヤコブは、「富んでる人は、自分が低くされることに誇りを持ちなさい。なぜなら、富んでいる人は、草の花のように過ぎ去って行くからです。」(ヤコブ1章10節)と忠告している。

 Ⅱ.21節と25節は、飢えている者の幸いと食べ飽きている者のわざわいについて。

 なぜ、いま飢えている人は幸いであり、いま食べ飽きている人はあわれな者なのか。その理由は、「いま」に対応する「やがて」という言葉にある。この「やがて」という言葉はとても重要である。というのは、心の貧しさや心の渇きによって神を信じた者の「やがて」は、永遠のいのちを受け、死後、神の国に入ることが出来るというすばらしい約束がある。しかし、地上で満たされ、食べ飽きている者は、神を知る機会を失い、神を信じることが難しくなるゆえにあわれである。

 今日私たちは、非常に先行き不透明で不安な時代の中に生きている。世界規模の異常気象、世界各地で頻発している大地震。また不慮の災害や事故、テロ、凶悪事件にいつ巻き込まれるか分からない今日において、なすべきことは十分な備えではないか。
 もちろん地上の備えは大切である。しかし、決して忘れてはいけないのが死後の備えである。今食べ飽きている人ほど、おろそかにしやすい永遠の備え。豊かな富によって、いつも食べ飽き、心の渇きに気づかず、神の愛、神のいつくしみ、神の恵みが心にまで届かないのです。しかも、この地上は決して安全地帯ではない。
 主は言われた。「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることはありません。」(マタイ24章35節)
 
 トルストイの民話で「人にはどれほどの土地がいるか」を紹介している。

 1日歩いただけの土地を1000リーブル(10万円?)で譲る。ただし日没までに戻ることという条件つき。パホームという小作人が、土地を買い増していき、パシキールという土地で、上のような話に出会い、遠くまで歩いて行く。日没に間に合うように、必死で戻ったために、帰るなり、息絶えてしまった。下男は、穴を掘って彼を埋葬。その穴の大きさだけの土地が、彼に必要な土地のすべてであった。
「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人の(まことの)いのちは財産にあるのではないからです。」(ルカ12章15節)と主は警告され、パウロは、「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることはできません。衣食があれば、それで満足すべきです。」(第一テモテ6章6ー8節)と勧めている。